2011年4月30日土曜日

南風の日

 南に勢力の強い高気圧があって、暖かい空気が流入し気温が上がっている。
この日、一昨年も同じことを書いていた。

 今日、ヒメイチゲが咲いているのを見た。
 漢字で「姫一華」と書く。
 生物名は片仮名で書く、と決めた人を恨めしく思う名だ。



同じ場所で、毎年出会う。
同じような気圧配置の同じような天気日に。


チシマザクラ、ウメ、エゾヤマザクラの蕾も色づき膨らんできた。






 移ろいやすい人間の営みよりもはるかに確かだ。
 一瞬一瞬が貴重だ。

生きることは、時間の流れを旅しているわけで、二度と同じ場には戻って来られない。
人の生きる様は、頼りなく変化する。
 だから、 時間軸の不動の一点に出会うと、人は心がやすまるのかも知れない





 そして、今年の春は、今までと全く違う。
 この強い春の風を怖れなければならない。
 南風に乗って、放射能が飛んで来ないだろうかという恐怖を消すことはできないからだ。


 今朝の放射線量は0.08マイクロシーベルトだったから、今のところ根釧原野では全く影響がない。

 だが、こうして毎朝、線量計の数値をチェックして生活しているということ自体、今までとは全く異なる。
日本の原子力発電技術は、大変な傷痕を残した。いや、現在も残しつつある。

  罪作りとは、こういうことを言うのだろう。
 大罪だ。

2011年4月29日金曜日

雷(いかずち)よ 欲にひれ伏す者たちを打て 稲妻よ 闇でうごめく者たちを切れ

この期に及んで

 「原子力発電は必要だ」とか
 「無くすことはできない」とか
 「もっと建設すべきだ」
 などと正々堂々と述べている人が少なからずいることが信じられない。

 明日からでも全て運転を停止し、廃炉に向けての計画立案に着手するのは東電いや当然ではないか。

 原子力発電を止めても電気がまったく無くなるワケじゃない。
 足りないものは仕方がないではないか。

 もう一度、安全で無害で持続可能なエネルギーとその供給システムのあり方について検討すれば良いじゃないか。
それこそが日本人の職人技を生かすべき方向だろう。
 それこそ、日本人お得意の「総力をあげた」取り組みをすればいい。
 産官学一体となって研究し、未来への道を拓けばいい。

 新しい技術の開発に失敗はつきものだ。
 「まずいゾ」と思ったら止めて引き返せばいい。現段階の原子力は、そういう「行き止まりの技術」だと思う。

 原子力発電にこだわるのは、そこで甘い汁を吸うために集まっているハエのような輩だけで良い。
 だが、その連中に丸め込まれ(「マインドコントロールされ」と言ってもいいですね)何人ものニンゲンが積極的に、または消極的に原発の推進は必要だとしている。

 フクシマの惨状を見、それでもなお原子力発電が必要と言うのは、自然と生命と人道への犯罪だと言われても仕方なかろう。

 いま、福島第一発電所の事故を「国難」といい、その作業員を英雄視し、反原発の発言を自粛しなければならないかのうような空気を作り出す、『原発ファシズム』とも呼ぶべき流れが兆している。

 原子力は、その熱で人間と都市を焼き尽くし、放射能の毒性で人々を冒し、今また、それが一部にもたらす巨利で人々の心を蝕んでいく、悪魔の火に違いない。

 原子核で陽子や中性子を結合させている「強い力」と言われる結合力が、原子核分裂で解放された時に得られるエネルギーが原子力だ。
 それは、たき火や電気に比べて桁違いに大きい。桁違いに・・・。

 人類は、精神的にまだ未熟だ。
 その力と魅力を制御できるほどに成熟していない。
 「まだ」と思いたいが。

2011年4月28日木曜日

その波も汀(みぎわ)に並ぶ流木も 心の海にどこか似ており

 家庭で使う電気は、言うまでもなく発電所だけがあれば良いというわけではない。
 発電所から都市へ電気を供給するための送電線。電圧を下げる変電所。そして配電線や柱上トランスなどなど。
とりわけ送電線網は日本全国に網の目のように張り巡らされている。調べたらわかることだろうが、その総延長はとてつもなく長いものになるだろう。

 電気というものは、そんなに大規模なシステムでなければ作られないものなのだろうか。日本には「電気事業法」という法律があって、誰でも発電や配電の業界に入ることはできず、事実上独占状態だ。

 電気は目に見えないし、扱いを誤ると危険も大きいから一定の規制や規格の制限は必要ではあるだろうが、薪ストーブのように一軒ごととか町内会ごととかで発電しても良いのではないだろうか。
 こう言えばすぐにコストの問題を言い出すヒトが出るだろう。確かにコストを抑える努力は必要だ。
 だが、コストだけを比較するのはどんなものだろう。スケールを大きくすることで、コストは抑えられるかも知れないが、数字に表れないことで失われるものも小さくないはずだ。
 原子力発電のように、ひとたび事故を起こせば、会社の存続が危うくなるほどの損害を生むものもある。
 持続可能なエネルギーを多用なソースから引き出して、有効に活用し、使い方もよく吟味して無駄な電力を使わないようにすれば、原子力発電なんかに頼らずに生活していくことができる。
 どこかの知事が「脱原発は現実的ではない」などとこの時節にまったくそぐわないトンチンカンなことを言っていたが、(あんな発言、マトモに相手にするのもバカらしいのだが)それこそ現実をきちんと見ないで、頭の中だけで考えた思い込みに過ぎない。
 「経済成長は大事だ」と言うかも知れないが、新自由主義者の大好きな経済成長は僕たちの生活に何をもたらしたか?
 子どもたちをどれほど歪めたか?
 自然環境をどれだけ壊しまくったか?
 企業だけに都合の良い派遣労働者切りや、福祉の切り捨てで人々の心をどれだけ荒廃させてきたか?

 あんな連中と無理心中させられるのはまっぴらだ。

2011年4月27日水曜日

4.28 沖縄デー

 オオジシギ初鳴き(初ディスプレイフライトと言うべきですね)

 この季節、春への歩みが加速する。
 バイケイソウ、エゾエンゴサク、イラクサ、クロユリなど家の前の草地に生える草の芽が日ごとに伸びていく。本当に一日でも目を離すと別世界になるようだ。
 春が爆発している。

 ただ、冬の名残のような寒気が大陸から不意に流れ込んでくるのもこの季節の特徴だ。 一昨年の今日は、猛吹雪の夜に、夏タイヤに換えていた車を恐る恐る釧路まで走らせたこともあったっけ。
知床峠の開通も、ほぼ例年、明日28日に予定されているのだが、毎年、無事に峠が開いたことがなかった。
 明日も「雨」の予報が出ている。どうなることだろう。

 ところで明日4月28日と言えば、1952年にサンフランシスコ条約が発効した日だ。その日から沖縄は本土から切り離された。
 本土の人々は、大部分がもうこのことを忘れているだろう。そして、若い人々は、この出来事の意味すら理解できないかも知れない。
 だが、昨年=2010年4月28日の「琉球新報」では、次のような記事が掲載されていた。(一部抜粋)

  サンフランシスコ講和条約が発効した。沖縄、奄美、大東を含む南西諸島は日本から切り離され、米国の統治下に置かれた。沖縄が切り捨てられた「屈辱の日」として忘れてはならない。
 太平洋戦争で沖縄は本土防衛の「捨て石」とされた。日本で唯一おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が行われ、20万人余が犠牲になった。このうち約9万4千人は沖縄の一般住民で、軍人の死者よりもはるかに多い。
 国民を守るはずの日本軍は、しばしば住民を避難壕から無理やり追い出し、食料を奪った。中にはスパイの嫌疑をかけられ殺害された人や、集団自決(強制集団死)に追い込まれた人たちもいる。
 米軍は沖縄占領後、嘉手納飛行場や普天間飛行場を整備。戦後も住民の大切な土地を銃剣とブルドーザーによって強制的に接収し、広大な基地建設を推し進めた。
 日本は、サンフランシスコ講和条約によって主権を回復する一方で、沖縄統治を米国に委ねた。
 「捨て石」にされた上、米国の施政権の下に置かれた沖縄住民は日本にとって一体何だったのか。
 米軍は沖縄の自治権を抑圧し、68年に屋良朝苗氏が選挙によって主席に就任するまで、全琉球住民の代表者を自身の手で選ぶ権利さえ認めなかった。(以下略)

 「中央」が「地方」を切り捨てて生き延びようとする構造は、いまだに変わっていないのではないか。
 原子力発電所の事故への対応からもそれはハッキリと見える。そもそも福島の原発で作られた電気は東京で使われていたのだ。
 さらに、その原発から出た廃棄物は青森とか北海道など「遠い所」へ運び、蓋をして知らんぷりを決め込もうというのが今の原子力政策だ。

 江戸幕府でもあるまいし、「中央」が「中央」という意識を持つこと自体が、すでに大罪だと思う。

 でも、いつまでも「中央」であり続けられるワケはないサ。

2011年4月26日火曜日

水によせて




 毎年、この時期にはシラカバから樹液を採取している。
 一晩で500ミリリットルくらいは採れる。

 シラカバが、今年の新芽を育てるために大地から枝先に向かって吸い上げる水を少し分けてもらうのだ。

 微量の糖分を含んだ水は、口の中でかすかな甘みを感じさせるが、ほとんど無味無臭で「透明な味」だと思う。
 おそらく、水としては最高級だろう。

 朝、起きてすぐ外に出る。取れたての水を一口飲むと、一日中元気でいられるように思う。今朝はウグイスが鳴いていた。(今年の初鳴きである)
 コーヒーを淹れるのに使っても良いし、煮詰めてシロップを作ることもできる。
 何よりも好きなのは水割りだ。普段は水割りあ飲まない僕も、この季節だけは例外だ。水割りが楽しみになる。(ウイスキーが楽しみなんだろ、という声もあるが)

 福島第一原子力発電所では、大量の水が放射能で汚染されて存在する。それに比べて一本のシラカバが吸い上げる水の総量はささやかなものだ。
 そして、そのお裾分けをもらう僕のペットボトルに貯まる水の量など、ゼロに近い。
 そんな、ごくわずかの水をもらっても、シラカバへの深い感謝の気持ちが湧く。

 福島では、炉心冷却のため量の水を注入し、まだ足りないようだ。あまつさえ汚れた水を平気で海にたれ流している。
 水や、その源の海への感謝や畏敬の念は持ち合わせていないのだろうか。
 自然への感謝の気持ちを持たない者に、自然は何度も警告を繰り返すだろう。

 今回の事故の背景に、このような寒々としたココロの風景があるように思う。

2011年4月25日月曜日

キハ54から学ぶこと

 昔から鉄道が好きだった。
 「俺はテツじゃない」と言い続けてきたが鉄道が好きであることは間違いない。
 昨今の流行に乗った浮ついたテツじゃない、とことさらに粋がっているだけだ。

 だが、正直なところ電車は嫌いだ。特に直流通勤電車の軽薄で安っぽい作りには辟易している。(この辺りで電車好きの方々からお叱りを浴びそうだ)
 などと言いながら、実際には、機会あるごとに嬉しそうに乗っているのだが。

 電車より機関車が牽く列車が好きだ。
 要するに客車列車はほぼ無くなり、貨物列車もタンク車とコンテナばかりになってしまった今日の鉄道で、単なるノスタルジアに浸っているアナクロ鉄道ファンに過ぎないのだ。
その証拠に、今も昔も路面電車は大好きだ。

 現代の電車は、高速だし安全性も高い。その上、乗り心地も抜群だ。高度な技術が多用され、鉄道車両としては最先端をいく。非の打ち所がない。
 だが、電車に関して僕がどうしても許せないのは(変な言い方だね)架線から電力を供給されていることだ。
 電車は、架線がなければどこにも行けない。架線があっても送電を止められたら全く動けない。電気が来なければただの鉄(最近は鉄じゃないけど)の箱だ。
 十分に電気が供給されて、はじめて鉄道車両としての役目を果たせる。

 それに比べて、根釧原野を走るディーゼルカーのキハ54やキハ40は、レールさえ敷かれていれば、どこへでも行ける。東京の山手線や中央線にだって乗り入れられる。
 電気機関車についても同じことが言える。

鉄道車両は、その自己完結性こそ魅力の原点だと僕は思う。

 今日、TVを見ていたら、東京から仙台まで新幹線が復活したことを喜ぶ旅館の女将の言葉が紹介されていた。
 曰わく「新幹線がつながらないと陸の孤島になったようだった」と。

 観光客の来訪を待ち望む心境は理解できるし、観光地が復興することは喜ばしい。まったく同感なのだが、新幹線にそこまで頼らなければならない現実に違和感を覚えた。驚き、少しがっかりした。

 旅のヨロコビは、一気に目的地に行き、さっさと帰ってくるというものではないだろう。目的に到達するまでの全過程が旅であり、その全てから新しい発見や出会いや学びが生まれるものではないだろうか。

 今回の福島第一原子力発電所の事故は、何も考えずに電力を湯水のように使う生活スタイルを見直す契機だとする声が高い。電気に頼り過ぎる暮らしを見直す必要が突きつけられているのだと思う。
 観光のあり方だって見直すべきじゃないかな。
 新幹線が万能であるかのように考えるのは、それとは相容れない。

 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉は、本当だなと、未来に一抹の暗さを予感させるザワリとしたインタビューに思えた。

2011年4月24日日曜日

鉄槌を!

 福島県は24日、福島第1原発から半径20キロ圏の警戒区域内で死にそうになっている牛や豚、ニワトリなどの殺処分を25日から始めると発表した。

 県の昨年10月のまとめでは、警戒区域内には376戸の畜舎があり、牛約4千頭、馬約100頭、豚約3万匹、ニワトリ約63万羽が飼育されているという。
 捜索に入った警察から「家畜が死んだり、死にかかったりしている」との通報が相次いでおり、「衛生上」の観点から決めたのだそうだ。

 今の政府は(以前の政府も皆おなじようなものだったろうが)生命をいかに軽く見ているかが、このことからもわかる。

 同時に家畜を飼う農民への配慮が全く無いということも証明された。

 なぜなら避難地域内に家畜を飼う人とたちが少なからずいることはわかっていたはずだし、避難を決めた段階で家畜への対策も同時に立てなければならないはずで、事態がさし迫ってからあわてて「殺処分」という方法でしかとれないのは、無能ぶりをさらけ出しか、「都会の論理」でしか物を見られない連中しか政府にはいないということを意味している。

 BSEや口蹄疫、スクレイピー、炭疽など人畜共通伝染病や感染力の強い伝染病の発症でやむを得ず殺処分に踏み切るというのなら理解できる。
 だが、今回の措置は、結果が予想されていたにもかかわらず、何も対策が取られなかったツケに他ならない。

 多くの家畜の生命を無意味に奪ったことを子どもたちにどう説明するつもりだ!
 「命を大切に」などと口が裂けても言えないだろう!

 もともと愛想は尽きているが、今回の措置には、煮えくりかえった腹がどうしても治まらない。

北海道に核のゴミを持ち込むな

 網走市に住む知り合いから「地層調査事業」に関する折り込みがしばしば新聞に入るということを聞いた。これは、幌延町の高レベル放射性廃棄物最終処分場建設に向けての調査と関連しているという。

原子炉を運転して生じた高レベル放射性廃棄物は、どこでも厄介者扱いされているが、これを北海道まで運んで来て捨てる計画があるのだ。
 美しいサロベツ原野にある町、幌延町に最終処分場を作るというものだ。『処分場』と言っても放射性物質をただちに無害にできるということではない。放射性物質を長期間にわたって地下に閉じ込めておくだけだ。
 そのために断層の状況や地質などを調べておく必要があるのだろう。

 このままでは、北海道が日本中の核のゴミ捨て場にされる心配がある。
 中央の言うことには、なんでも尻尾を振って従い、カネのためなら何でもするのが今の北海道知事だから、非常に危険だ。

 これは、どうしても阻止しなければならない。
 核のゴミは、絶対に津軽海峡を渡らせてはならない。

2011年4月23日土曜日

低気圧と毒まんじゅう

低気圧が南からやって来た

低気圧の円盤には
南の記憶が刻まれている

南の流行

欺瞞と強弁と詭弁を
分厚いツラの皮で包み
第三の火で焼き上げた
福島名物の焼き菓子は
トマリ
カシワザキ
オナガワ
ミハマ
ヒガシドオリ
センダイ
ゲンカイ
シマネ
イカタ
タカハマ
シガ
トウカイ
これらの土地で
評判が良い

だが
これには強い中毒症状が伴っているらしい

その症状
真っ先に良心を傷つける
次に目を眩ませて
耳も聞こえないようにする

最後に脳に浸透し
思考能力を奪うのだ

何も考えずに
毒をまき散らしたヤツが
袖をたくし上げ
皆に土下座してみせていた

背中には
嘲笑の皺が浮いていて
この皺は
すべてを独り占めで食おうとした
怪物
原子まで分解する胃袋をもつ怪物

ソイツの脱皮した殻が
こびりついてからできたに違いない

2011年4月22日金曜日

シラミと火山と

 ヒトに寄生するシラミには、主として頭髪などに棲み着くアタマジラミと衣服の縫い目などにいて、皮膚表面に吸血しに出てくるコロモジラミとがあり、これらは同属同種であり、亜種が異なるとされている。ケジラミは属も種も別なのだそうだ。

アタマジラミがデフォルトで、コロモジラミが途中から出現したものだろうと考えられている。なぜなら、ヒトは、最初はハダカでいたわけで、衣服は着ていなかったのだから。

 アタマジラミとコロモジラミのDNAを比較したらこの両者が分化したのは7万2千年くらい前のことなのだそうだ。つまり、ニンゲンはこの頃から衣服を着るようになったということらしい。

 ところで、7万3千年前くらい前、スマトラ島のトバ火山の大爆発があったことが知られている。この噴火は、この10万年間のトップクラスの爆発で、火山噴出物が成層圏を取り巻き、日射量を激減させたことで、地球の平均気温が3~5℃低下したと考えられている。

 この低温が原因で、かなりの数のヒトが死に絶え、1万人ぐらいしか生き残らなかったということがDNAの分析から言われている。それは、衣服を「発明」したヒトたちではないか、と考えられているのだ。
 
 この衣服の「発明」によって人類は、シベリアを横断し、北極近くまで進出、ベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸の南端にまで広がることができたと多くの学者は考えているようだ。

 以上は、今日、「環境保護」の授業で取り上げた話題だ。

 火山噴火や氷期、時には地震などの災害さえ人類の文明を進歩させる原動力になった。

 原子力発電所の事故や原水爆実験による放射能は、今後の環境史にどう記録されるだろう?
 よもや、放射線に対してメチャクチャ強い耐性を備えたニュータイプの人類だけが生き残るなどという悪夢のようなシナリオが展開されることはないだろうな。

 今後の原子力発電の要不要の議論を読んでいると、ふと、このような幻想に怯えてしまう。 「原発容認種」は、原子力発電所を建設しまくり、放射能をまき散らし、エネルギーを浪費し、自然をニンゲンだけのために作り変えて享楽的、刹那的な文化の爛熟へと進むのだろうか。

 ただ、忘れてほしくない。
 地球には、火山噴火、地殻の大変動、大寒冷期の到来、隕石の衝突など人類のたかだか5~6千年の歴史では経験したことのない、大災害がまだまだあるはずだ。

 自然を侮ってはならない。奢ってはならない。

2011年4月21日木曜日

混ざる? 混ざらぬ? いい加減なことを言うな!!(怒)



 今日、「海洋生物」の授業で行った実験。

 海水と同じ濃度の食塩水を作る。そこに、メチレンブルーで青く色を着けた真水を注ぐ。両者は混じり合うことなく、この写真のように二層に分離する。

 東京電力が福島第一原子力発電所で、放射能で汚染された水を海に流した時、原子力安全保安院の担当者が記者会見で言っていたことを思い出した。
 「放射能は海水中に拡散するから薄められます」と。

 彼は、この実験を知っていたのだろうか?
 海中の現象は、水の混ざり方ひとつ取り上げても難しく、単純に解釈できないことがたくさんある。汚染水が海の中に広がっていく、ということは長期的に見れば誤りではないが、実際にどのくらいの時間で、どの程度混じり合うかを示さなければ、無責任な予想あるいは希望に過ぎない。

 もし、保安院の職員が、海水と淡水の混合のメカニズムを知らないであのような発言をしたとしたら、自然現象についてあまりにも無知で、そんな程度のニンゲンに原子力発電の安全を任せておけないということになる。
また、それらのことを知っていて、あの発言になったのだとしたら、それはとんでもないウソツキ、大嘘つきのペテン師だということになる。

 いずれにしても、言葉で国民をたぶらかしていることに違いはない。

 今回の事故の悲劇性は、事故そのもの以外に、それに随伴する情報管理や真実の歪曲、原子力発電を強引に推し進めようとするこの国の姿勢に根ざしていることを示す、一つの例であろう。 

2011年4月20日水曜日

がんばれ!コペルニクスの末裔たち。

J-CASTニュース 4月20日 より一部転載
原発推進学者が次々懺悔 「国民に深く陳謝する」(2011/4/16 13:17)

 元原子力安全委員長の松浦祥次郎氏や前原子力委員会委員長代理の田中俊一氏ら原発推進の学者16人がこのほど、異例の緊急提言を行った。

「原子力の平和利用を先頭だって進めてきた者として、今回の事故を極めて遺憾に思 うと同時に国民に深く陳謝する」

 大量の放射能を閉じ込めるのは極めて困難、と認める指摘もある。
 「私たちは事故の推移を固唾を飲んで見守ってきた。しかし、事態は次々と悪化し、  事故を終息させる見通しが得られていない」
 「膨大な放射性物質は圧力容器や格納容器内に拡散・分布し、その一部は環境に放出  され、現在も放出され続けている」
 「特に懸念されることは溶融炉心が圧力容器を溶かし、格納容器に移り、大量の水素  ガスの火災・爆発による格納容器の破壊などによる広範で深刻な放射能汚染の可能性  を排除できないことである」

16人は東京大学名誉教授、京都大学名誉教授、東京工業大学名誉教授などそうそうたるメンバーで、原子力安全委員会や原子力委員会の歴代委員長や委員を務めるなどした日本を代表する原子力の専門家たちだ。

4月1日、会見した田中俊一氏は
 「原子力の平和利用を進めて、まさかこういう事態、これほど国民に迷惑をかけるよう な事態は予測していなかった。結果的にこういうことになっていることについて、原子 力を進めてきた人間として、国民に謝らなくてはならないという気持ちは、みんな持っ ていると思う」と心境を明かした。

提言に加わっていない原子力安全委員会前委員長の鈴木篤之氏(日本原子力研究開発機構理事長)も4月6日、衆議院経済産業委員会に招致され、
 「国民にたいへん申し訳ない。私にとって痛恨の極みだ。この事故を反省し、よく考え ていかないといけない」などと反省の弁を述べている。

原子力安全委員会では、歴代OBに限らず、現役首脳も自己批判に追い込まれている。斑目春樹委員長は、やはり6日の衆議院経済産業委員会で、「今回の事故を深く反省し、二度とこのようなことが起こらないよう指導していきたい」などと弁明に懸命だった。

コペルニクスは、ガリレオよりも100年前に地動説を唱えたのだが、ガリレオのように宗教裁判にかけられることはなかった。むしろそれどころか、彼は聖職者であり、地動説を「弾圧する側の人間」だったのだ。

 立場の問題もあるが、コペルニクスは、革命的で大胆な性格の持ち主ではなかったといえる。37歳の時には既に太陽を中心に地球が回っていると結論付けたが、堂々と発表していない。論文の草稿を一部の学者に送っただけにとどまった。
 異端呼ばわりされることを恐れたのだろうと言われている。だが、彼がためらっている間にも、地動説についてのうわさは徐々に広まっていった。

 それから30年の後、ついに本に著す決心をした。 初めは匿名での出版を条件としたが、世間の反応を見て実名を書いた。
 こうして出版された本が『天球の回転について』だ。完成本が出されたのは、彼が享年70歳で死亡した後だった。

今回声明を発表した原子力学者たちの記事を読んで、僕はコペルニクスのことを思い出した。学者も人間であり、それぞれの生活もあるだろうから、新たに発見した事柄が社会的にどのような影響を与えるか、考えないわけにはいかないだろう。寄付金をもらっている立場もあるし。

 今回、16人の学者が、今までの誤りを認めたことは、素直に評価したい。
だが、重要なのは今後の彼らの行動である。
 本当に謝罪する気持ちがあるのなら、専門的な学識や経験を生かし、原子力発電所を無くすこと、計画中または、建設中の原発はすべて中止し、既存の原発も全て無くすための運動に取り組むべきだ。

 今となっては、コペルニクスは、ガリレオと並び、天文学史上の偉人として位置づけられている。

2011年4月19日火曜日

偶然に手に載せしマヒワの軽さ 手のひらに 残る命の重さ



 中高一貫推進委員会の最中、窓に何かがぶつかってきた。

 休憩時に見てみると黄色い小鳥が落ちている。マヒワだった。外傷は無く、骨にも異常はなさそうで、単なる脳しんとうだと考えられたので、段ボールの小箱に入れて保温して事務室で保管した。
 会議が終わったお昼前に一旦放してみたが、ボーッとしていた。しばらくしてから近づいて手を伸ばしてみるとすぐに捕まえることができた。
 で、段ボール箱に逆戻りとなる。



 午後、二時過ぎまでそのままにしておき、それから再放鳥を試みた。
 今度は、午前よりも力強い羽ばたきで遠くまで飛んだ。積まれた木材に留まったので、少ししてから近づいてみると、ニンゲンを嫌って斜面の林に飛び去った。

 体重十数グラムの小さな命だが、雨の日も寒い日も野外で逞しく生きている。
 僕が「助けてやった」などと考えられない。
 僕の体重は、マヒワの5000倍以上ある。(計算の要なし)
 彼を温めてやることもできる。
 だが、食べものを探し出し、害敵から身を守り、子孫を育て力強く生きる力は、あの鳥たちには及ばない。

 偶然の出会いで、ほんの数時間ふれ合っただけのマヒワだが、いろいろな印象を残して旅立って行った。




 制御できるかどうかおぼつかない核分裂反応を得意そうに振り回し、失敗して生命に有害な物質をまき散らすようなニンゲンは、こんな小さなマヒワの命のことなど考えもしないのだろう。
 自然に対する傲慢さを改めない限り、ニンゲンに未来は無い。

2011年4月18日月曜日

放射線量計を買っちゃった

 放射線量計を買ってしまった。
 それが今日、届いた。

 今は、あちこちで引っ張りだこなのだろう。普段なら二束三文、と言っては言い過ぎだろうが、さほど実用の役に立たず、普通の人々には無用の長物であるはずの物が、今や大人気商品で、注文からかなり待たされた上、値段も、たぶん普段よりけっこう高いのだろう。

 家の中に設置してある無線LANの調子が悪く、ルータの買い換えを検討していたのだが、その予算がこちらに回ってしまった。

 放射性物質による汚染が疑われる食材が出回るようになったら、自分たちで安全を確認しなければならない。
 「安全です」を繰り返すだけの政府や、根拠のハッキリしない「基準値」が全く信頼できない。
 線量計は、お箸や茶碗のように、わが家に不可欠な物になってしまった。

 人生には色々なことがある。
 まさか、こんな道具に頼って生活する日が来るなんて、予想もしていなかった。

2011年4月17日日曜日

ふたつの問題

 これからの世の中、電気はますます重要で、二酸化炭素を出さない原子力発電所は電源として不可欠だ。
 たとえ、危険でも、安全に最大限配慮して原子力発電を維持発展させなければならない。

 ただ、事故が起きたら大変なことになるので、できるだけ人口の少ない所に建設しなければならない。

 そして、できるだけ自分の住む所から遠くに置いてほしい。
 原発は必要だけど自分の町には要らない。


ちょっと待て。
 この言い方ってどこかで聞いたゾ。

 ウン!そうだ!アメリカ軍基地だ。
 自分の所には来てほしくないけど、日本には必要だという筋立て。

 どちらの問題も
 本当に必要なものなのかどうか、
 「必要だ」と思わされているのではないか、
 原点に戻って、一人一人が自分の頭で、しっかり考えてみることが必要だろう。その際、肝心なことは、
 ある特定の政治的意図によって、利潤追求のために事実が歪められていないか。
 与えられている情報が真実かどうか、意図的に歪められていないか。
 どのような経緯で現在の問題が生じたかが正しく伝わっているか。
などといった点に特に注意すべきではないだろうか。

2011年4月16日土曜日

「風評」への疑問

原子力発電所の大事故に伴って、「風評被害が出ている」と言われている。

 「風評」とは「世間であれこれ取りざたすること。また、その内容。うわさ。」のことなのだそうだ。
 「根拠の無いうわさ」という意味でもよく使われる。

 福島県から転入してきた児童に対して周りの子どもたちが
 「放射能がうつる」と言って排除したというニュースがあったけれど、これなどは明らかに風評によるものだろう。人間の尊厳を踏みにじる卑劣な行為だ。

 だが、原発周辺で採れた野菜や魚などが売れないことを一概に「風評被害」と決めつけてよいものだろうか。中には「風評」ではなく、根拠のあるケースもあると思う。

 なぜなら:
 一次産品が出荷できるかどうかは、放射能が基準を超えているかどうかで決まる。だから基準値以下であれば出荷される。そして、その「基準」は、まったくの平常値つまり原子力発電所事故による影響が無かった場合の放射能の濃度より高い場合もあるわけだ。
 「基準」は人体への影響の有無で判断されているから。

 つまり、今回の事故で汚染されていても、それが「基準値」以下だったら安全だとして出荷が認められているということだ。

 もちろん、人体への影響は、十分検討されて決められている、と思いたい。だが、自分の口に入る食物は自分の責任で選びたいから、食べる側が最終的な基準を持たなければならない。

 だから、物事を単純化して、「安全」か「危険」かの二者択一に持ち込まれるのは迷惑千万だ。消費する側が主体性をもって、判断し、自分の責任で選びたい。それができない状態で、汚染が疑われる地域の一次産品を拒否することを「風評」と呼んでほしくないのである。

 もちろんその地域の生産者は気の毒だし、同情する。応援してあげたい。だが、その感情と、放射能に対する考え方は全く別のことだ。

 「風評被害→根拠の無い差別→生産者が気の毒→あの産地の物を積極的に食べよう」という善意と義侠心に訴えて「風評」を消そうというのは姑息なやり方だ。知と情とを混同すべきではない。
 まして、それを意識的に推し進めんがため、情報を隠したり「基準」を歪曲するのはもってのほかだ。

 僕は食べない。  

2011年4月15日金曜日

碧空を 白鳥の群れ北へ去り 陸(くが)果つる地で 仰ぎ見る吾


偶然ではあろうが、去年もこの日、北へ飛ぶハクチョウの群れを見送った。
かなりの高度を、大きな群れが整然と飛んでいった。
午後、2時20分頃のことだ。

 行方不明も含めて、3万人近い人の命が失われた。
この先、ボディブローのようにジワジワと効いていくる放射線による障害で、癌などの疾患による死者も出るかも知れない。

 「たぶん、君たちが思っているより命というものは簡単に失われるヨ」
 今日、「野外活動」の授業の第一時間目の冒頭で、こう言ってのけた自分の言葉に、うなずく僕自身の内面があった。
一万とか十万とかのオーダーで、命が失われる時、われわれの現実認識は、それに追随できなくなる。
 大規模なイベントの時、巨大なシステムを設計し運転する時、われわれは全体を構成する「個」を見なくなる。

 だが、一つ一つの命には、それに連なる命があり、かけがえのない値打ちがある。

 そのような命が3万近く失われた。

 教室での説明を終え、校舎の外に出た時、ハクチョウの大きな群れが頭上を通り過ぎた。
ロシアでは、死者は鳥に姿を変えるという言い伝えがあるという。
 ハクチョウたちは、隊列を崩すことなく、一直線にカムチャツカの方角へ飛んでいった。
 その群れは、放射能で汚れた国から一刻も早く飛び去ろうとしているかのような、断固とした意志を示しているかのようで、地上で見上げる僕を、呆然とさせる勢いを放っていた。

2011年4月14日木曜日

「パパラギ」で授業をする

今日は「環境保護」の授業で「パパラギ」について話した。
 授業の流れに沿って少し紹介したい。

 「パパラギ」は、1920年に画家で作家のE・ショイルマンによってドイツで出版された。サモアの酋長ツイアビが訪問したヨーロッパについて話した演説をまとめたという形をとっているが、実際はショイルマンの手になるフィクションであると考えられている。 「パパラギ」とは「白い人」、「外国人」の意である。この本では、ツイアビがヨーロッパを訪れて見た「パパラギ」について語るという形で、欧米文明の批判が展開される。
 
 このツイアビが実在の人物かどうかはさておき、ここに書かれている近代文明への批判には耳を傾ける価値があるのではなかろうか。

取り上げたのはパパラギの演説のうち、二番目として載っている部分だ。

以下引用(エーリッヒ・ショイルマン著 岡崎照男 訳:ソフトバンク文庫より)

 それからパパラギは、わたしたちのことについてこうも言っている。
 「きみたちは貧しく不幸せだ。きみたちには。多くの援助と同情が必要だ。きたちは何も物を持っていないではないか」」
たくさんの島々の愛する兄弟たちよ。物とは何か、おまえたちに告げよう。
たとえばヤシの実はひとつの物である。ハエたたきも、腕輪も、食事の皿も、髪飾りもすべてこれらは物である。
 しかし、物にはふたつの種類がある。ひとつはヤシの実や、貝や、バナナのように、わたしたち人間が何の苦労も労働もせず、あの大いなる心が造り出す物である。いまひとつは、指輪や、食事の皿や、ハエたたきのように、たくさんの人間が苦労し、労働をして作り出す物である。アリイ(紳士)が言う物とは、彼が自分の手で作った、人間が作った物のことであり、私たちが何も持っていないと言われるのは、こうした物のことである。しかし、大いなる心が造り出す物について、アリイはひとことも言えるはずはない。そう、いったいだれが私たちより豊であり、だれが大いなる心の造り出した物を、私たちより
たくさん持っているだろう。
       ▲「大いなる心」というのは、自然とか神とかの概念だ、
         ということを話し合いで気づかせる。(授業中の補足説明、以下同じ)
      <中略>
 私たちはとうてい、大いなる心のなす業をまねることはできない。なぜなら、大いなる心の持つ力に比べ、私たちの心はあまりに小さく、あまりに弱い。さらになお、私たちの手は、力強い大いなる手に比べてあまりにも弱すぎる。私たちにできることは貧しく、語るに足りない。
 私たちは棒を使って手を長くすることもできるし、タノア(四本脚の木の皿)を使って手のひらを広げることもできる。だが、サモア人のだれも、パパラギのだれでさえ、いまだかつて一本のヤシの木、ひと株のカバの木さえも作ったことはない。
       ▲現代の文明でさえ植物の手を借りずに光合成を試験管の中で行わせるこ        とはできない。
        人間が誇る「科学技術」などその程度のモノだということを確認する。

 いうまでもなくパパラギは、そういう物が作れると信じている。大いなる心と同じように強いと思っている。人間が作る物、私たちにはそれが何のために使われるのか見当もつかず、美しいとはとうてい思えない。
<中略>
 兄弟たちよ、おまえたちにはわかっている。私が嘘を言っていないこと、そしておまえたちに真実見たままを語っていることが。私は何も付け足しはしていないし、何もおとしてもいない。ヨーロッパには自分の額に火の管を当て自分を殺してしまう人たちがいる。これは本当の話なのだ。<中略>
   ▲「火の管」とは銃のことだろうね。
 だから私はヨーロッパで、邪魔にされないで手足を伸ばし、ゆっくりむしろの上に寝られるような小屋にであったことがない。すべての物がギラギラ光ったり、色が大声で叫んだりして、目を閉じることさえできなかった。本当に安らいだ夜は一度もなかった。寝むしろと枕のほかには何もない、海を渡るおだやかな季節風のほか、何も訪れてこないサモアの私の小屋のことを、あれほど恋しく思ったことは一度もなかった。
 少ししか物を持たないパパラギは、自分のことを貧しいと言って悲しがる。私たちならだれでも、食事の鉢の他は何も持たなくても歌を歌って笑顔でいられるのに、パパラギの中にそんな人間はひとりもいない。
<中略>
 物、どれもこれも簡単にこわれてしまい、火事のたび、強い熱帯雨のたびにめちゃめちゃになり、いつも新しく作りなおさねばならない、物。
 ヨーロッパ人らしいヨーロッパ人ほど、たくさんの物を使う。だからパパラギの手は休むことなく物を作る。それゆえ、パパラギの顔はたいて、疲れていて悲しそうだ。だからあの大いなる心の造った物を見たり、村の広場で遊んだり、喜びの歌を作って歌ったり、あるいは安息日に日の光の中で踊ったり、私たちすべての人間がそう定められているように、さまざまにからだを動かして楽しもうとするひとは、ほとんどいない。
 彼らは物を作らねばならぬ。彼らは物を見張らねばならぬ。物は彼らにつきまとい、小さな砂アリのようにかれらの肌をはい回る。彼らは物を手に入れるために、冷酷な心であらゆる罪を犯す。彼らは男の名誉のためでも、力比べのためでもなく、ただただ物のためにのみ、たがいに攻撃し合う。


長い引用になってしまって申し訳無かったが、ここに書かれていることを是非とも若者たちに伝えたかった。

「デルス・ウザーラ」も同様だが、「文明人」の中に、自分たちの属する文明を鋭く批判する著作がある。
 それこそが文明の進む道を示す指標であり、危うい方向に向かった時の木鐸なのではないだろうか。

2011年4月13日水曜日

プロメテウスの憂鬱

 今日から「環境保護」の授業が始まった。
 今年度で3年目に入る。

 過去2年間の反省を踏まえて、冗長な部分は削り、強調したい分野は強化して、年間計画にマイナーチェンジを加えた。
 新たに強調したのは「環境史」だ。これまでもこの部分の授業には力を入れてきた。しかし、一昨年、石弘之先生の本を読み、直接お会いする機会を得て環境史の重要性をあらためて認識した。
 ヒトは、「ヒト」という生物の種として進化して地球上に出現したが、ある時点から文明を手にして、環境に不可逆的な改変を加えるようになった。
 そして、文明が進むとともに、環境に加える改変はますます大規模になって今日に至っている。
 少なくとも3000年から5000年の間のことだろう。
 生物としての歴史は100万年とも500万年とも言われる。どのような動物を「ヒト」とみなすかによって異なる。
 いずれにしても「文明」の歴史よりはるかに長い。

 この長い長い「ヒト」としての歴史の最後の2000年間で、物を燃やして得られる火のエネルギー(つまりは酸化エネルギー=化学エネルギー)にとどまらず、原子の構造を変化させて得られる原子力エネルギー(核エネルギー)を取り出すに至った。

 地球上自然界では、可視的な範囲で物が燃える火はある。雷や火山噴火による山火事などである。だが、原子核の崩壊によるエネルギーは、エネルギーとして目に見える状態では存在していない。
 原子力発電推進派の皆様がよく言うように、天然の放射線は確かに存在するが、それとは桁違いの猛烈な放射線をニンゲンは作り出したのだ。

 問題はそこまでして発電するしか方法がないのか、そうまでして電気をつくる必要(需要)が本当にあるのか、ということだ。この点についての十分な検証は無いと思う。

 現代を生きるニンゲンとして、僕らは、神への挑戦にも匹敵する恐ろしいことをしているのだという自覚を持つべきだ。

2011年4月12日火曜日

キクイタダキと放射能

 今朝、窓の外に小鳥の影がさした。
 のぞいてみると二羽のキクイタダキが来ていた。体重1グラム、日本最小の野鳥。
 頭頂部にあるキクの花びらの形のチョンマゲのような黄色と赤の斑紋もハッキリと見えた.可愛らしい姿を間近で見ると、すごく得した気持ちになり、一日中ウキウキとした気分でいられる。
 
 ところが、福島第一原子力発電所の事故が、レベル7に引き上げられたことを知って、一気に冷水を浴びせられたように気分が萎んだ。
 冷水は原子炉に浴びせてほしかったのに。

 世界一の危険度の事故になったのだ。
 「二位じゃダメなんですか?」
 こう茶化そうと思ったら、すでに2chに書き込んでいた人がいたそうだ。

 事故発生当時は「レベル4」と発表されていた。
 周辺住民の避難も「念のため」いうことだった。

 
 東電や政府は、いかにこの事故を小さく見せようと努めてきたか、よくわかる。


 選挙が終わった途端にレベル7に引き上げたことも、タイミングが良すぎないか。

 もし、レベル7の発表を意識的にこのタイミングにしたのだとしたら、この国の政府は、まだ、国民の安全よりも支持率や政争を優先させているということだ。

 こんな政治家を選び、こんな電力会社があることを許してきた人々にも重い責任がある。

2011年4月11日月曜日

なぜ 怖れる?

 隊列をできるだけ歩道側に押しやろうとする交通整理の警官たち。
 歩道上には目つきの良くない男たちがあちこちに不自然にかたまってたむろし、中にはカメラを持った者も複数いる。

 10日昼、札幌市内で行われた原子力発電所に反対するデモと偶然に出遭った。

 デモ行進は子どもたちや仮装した人々も混り、穏やかで和やかで平和的なものだ。それに対して取り締まり側の態度は、緊張感に満ちていて、大多数の警察・公安関係者の表情は緊張で引きつっていた。
 警備に名を借りてデモに圧力をかけていること、また圧力をかけていることを一般市民に見せつけていることは明らかだ。

つまり権力による少数者へのイジメですね。彼らの得意とするところでしょう。

 なぜ、そんなに怖れる?

 安全でクリーンで正しくて必要なものならなぜ原子力発電を堂々と進めないのはなぜだ?
 反対の意見表明に対して、なぜそこまで怯えている?

 理由を書いてやろうか。
 本当は危険で、利権に群がる不正が渦巻いていて、不必要であるということを当事者がたちが、最もよく理解しているからだ。

 原子力発電は、空気と土と水を汚すだけでなく、同時にヒトの心と言葉と行いも汚し、民主主義と人権を踏みにじらせてしまう悪魔の火なのである。

2011年4月10日日曜日

脱感作(だつかんさ)

 脱感作:アレルギー症の治療などに用いられる方法で、希釈したアレルゲン(アレルギー症状を引き起こす原因物質)を少量ずつ投与し、徐々に感受性を下げていく方法。

飲酒を続けていると、次第に酒量が増えていくのも脱感作だ。
 漆職人がウルシにかぶれなくなるのも脱感作だ、と言われる。

 要は、徐々に慣らしていくことネ。

 放射能汚染された農水産物を市場に出回らせる。消費者は最初は怖がって手を出さない。

 だが、「基準」が設定され、「直ちに健康被害はない」というお墨付きがあれば、価格の安さに惹かれて購入するようになるだろう。

 コワゴワ食べてみる。
 「あら、なんでもないわ」となる。
 中には
 「美味しいわ」なんていうトンチンカンな感想もあるだろう。ゼッタイにあるよね。

 次第に「基準値以下」の放射能に汚染された食材が、日本人には普通になっていくことだろう。
 「基準以下」の農薬が普通に使われているのと同じように。
 だが、農薬と放射能では話が違いすぎる。

そして現在ある放射能の「暫定基準」を見直すべきだという論議がすでにされているのだ。
 
 放射能に関しては「疑わしきは罰する」という原則で行くべきだし、これまでそうやってきたのではなかったか。

 これは、心の脱感作だと思う。

2011年4月9日土曜日

へそ曲がりのタワゴト

 「がんばろう日本」の後に「欲しがりません、勝つまでは」と続くような気がして、素直に言葉を受け止められない。

 被災者支援の募金もしているし、応援する気持ちは人一倍持っているのだが。

 「この非常時に・・・」という表現も同じ。
 
 そのうちに、たすきか腕章を付けた町内会が見回りに来て、

 「ここの家は節電に協力していない!」とかと言われそう。コワイ。
 「国難」と言う言葉もイヤだ。
 受難しているのは被災地の住民たちや原子力発電所周辺の住民たちである。

 「国」を前面に出す前に「国」とは何か、をハッキリさせなければならない。そこを曖昧にしたままで「国」を濫用すると個人の上に国を置いてしまうのではないかな?

 多様な人々から構成されている公の存在として「国」の概念を保たなければ、結果的に「国」を私物化したがっている勢力の思うツボになってしまうのではないだろうか。

2011年4月8日金曜日

言葉よ、鉄槌となりてファシストの頭上を打て

 「流言飛語」を載せいているHPやブログのプロバイダーに対して、政府は削除要請をするらしい。原子力発電所事故に関して「過激な」報道をしている海外メディアに対して、抗議もしているようだ。

 「やはり」と言うべきか、「ついに」と言うべきか。
 本性を現したナ!コノヤロー!である。

 インターネットに載る情報は玉石混淆だということなんて、端からわかっている。それを閲覧する個々人が自分の責任で吟味して受け止めるのが知的レベルの高い先進国のウェブ利用者だし、日本も「教育程度の高い先進国」なんじゃなかったの?

 海外メディアの報道にも、過剰な反応のものはあるようだが、正面をきって堂々と反論すれば済むことで、「抗議」するような問題ではなかろう。
 その同じ舌で、今回の事故について国民に情報を伝えることを渋り、東電を庇い、「直ちに影響はない」というのが流行語になるくらいに、言いまくっているのは日本の政府でないのか。

 国家権力が言論に口を出し始めたらその国はもう、危険だ。

 いま、僕は、非常な不安を感じる。
 地震はファシズムの亡霊を呼び覚ましたのかも知れない。 

2011年4月7日木曜日

神がかるつもりはないけれど

 チェルノブイリ原子力発電所の事故が起きた時、その様子が聖書の「ヨハネの黙示録」にある描写と似ていることが人々の話題にのぼった。

『第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。』この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。』(ヨハネの黙示録8:10-11)

 「苦よもぎ」はロシア語で「チェルノブイリ」なのだそうだ。
信じるかどうかは別として、その内容があまりに似ていることに驚いたものだった。

チェルノブイリもスリーマイル島も福島も、事故に至る過程や原子力発電の様式など細かな部分ではいろいろな違いがあるようだ。
 しかし、「原子力発電所が不正常な状態になって、原子炉内部の放射性物質を環境にまき散らした」という「起きた事実」はみな同じだ。

 「予言」というものがあるのかどうか、僕はわからない。
だが、原子力発電所の大事故があっても、原子力発電にしがみついていた結果、今日の事態に立ち至っているのは紛れもない事実だ。

「黙示録」はこうも述べている。
 『これらの災害で殺されずに生き残った人々は、自分の手でつくったものについて、悔 い改めようともせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見る事も聞 くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。また、彼らは その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとはしなかった。』
                      (ヨハネの黙示録9:20-21)

ね、「悔い改めて」いないということは事実でしょう。

イエスの言葉が、こう伝えられている。
『その日、その時は誰も知らない。天使たちも知らない。父だけがご存知である。気を  つけて、目を覚ましていなさい。その時は、何時なのかあなたたちには、分からないか らである』(マルコによる福音書13:32)

2011年4月6日水曜日

ハクチョウ 怒りの日

 今日の羅臼は昼間気温が17℃にもなった。
 サハリンと大陸の間にある間宮海峡に低気圧があり、本州中部が高気圧に覆われている時、ハクチョウたちは北へ渡る。
 昨日も今日も朝から夕方まで、多くの群れがひっきりなしに北へ飛び去った。

 シベリアへ飛び去るハクチョウを見送る時、いつも厳粛な気持ちになる。
 自力で3000キロを旅する者を敬う気持ちと、渡りの途中で落命する個体が必ずいるわけで、死へ向かう者を見送る寂しさが交錯するからである。

福島県・茨城県はオオハクチョウの越冬南限だ。福島市内の阿武隈川や猪苗代湖で多数の個体群が越冬する。

 間宮海峡に低気圧があることを彼らは天気図も見ずに感じ取る。渡りの多い日の天気図を比べると、毎年ほぼ同じ気圧配置だ。

 だが、そんな彼らにも放射線を感じたり、その危険を予知する力は無いだろう。なぜなら、原子力発電はニンゲンが作り出したもので、放射能はそこからまき散らされたのだから。生命を危険にさらすような濃密な放射線は自然界には無い。

 ハクチョウの渡りの群れを見かけると、いつも直立不動で見送ることにしている。
 尊敬と祈りを込めて。
 例年なら心中で、
 「来年もみんなそろって戻って来いよ~」と念じる。

 今春は、違っていた。
 「気をつけて帰れよ~。
 日本の水域は、放射能で汚染されるぞ~。
 来年は戻って来ない方がいいよ~」

 何の情報も無く保障など皆無の野生動物たち。
 何一つ苦情も言わない者たちに代わって、言ってやろう。
 原子力発電所や風力発電の巨大風車は、いますぐなくせ。
 作ったヤツは謝れ

2011年4月5日火曜日

沈黙の宇宙船

エゾオオカミが絶滅したとき、100年後にエゾシカが増えすぎて、様々の被害を出すことを誰が想像したろう?
 農薬で、クモや鳥やカエルがいなくなって、「効率的に」米が作れると考えた人たちは、トキやコウノトリが絶滅することまで想像できたろうか。

 福島第一原子力発電所では、昨夜から排水許容基準の100倍の濃度の「低レベル」放射能汚染水を海に捨て始めた。
 100年後の日本の海にどのような変化が起こるか。いや、50年後でもいい。10年後でもいい。予想し、検証し、想像することさえせずに「緊急事態だから」ということで、このタレナガシが行われたわけだ。

 人類は、またひとつ地球の環境に大きな汚点を残した。自然への罪を犯した。そしてその先頭に日本が立った。
 にもかかわらず、いまだに
 「海水中に拡散して薄まるから問題はない」と根拠の無い楽観にしがみついている学者たちには、自然環境という複雑系に対する畏敬の念や謙虚さが無いのか!

 僕の声は小さいけれど、ハッキリと言っておきたい。
 キミたちは間違っている。
 間違いを犯した。
 それは、歴史によって裁かれることだろう。

 原子力発電は止めるべきだ。
 今すぐ。
 それによって、一時的に不便な生活に戻ることがあったとしても。
 なぜなら、原子力を使う方向に進んだこと自体が間違っていたのだから。 

2011年4月4日月曜日

大きいことは良いことか?

 仙台市の都市ガス網の復旧に、全国から2700人ものガスの技術者が集まったという記事を読んだ。地震発生から間もなくひと月になろうとしている。

 あらためて被害の大きさがわかる。と、同時に都市ガスという巨大なシステムの脆弱さについて考えてしまう。
 1994年のことだが、北海道東方沖地震で震度5強を経験した。
 幸い、住宅は、地盤液状化のために少々浮き上がった程度で何の被害もなかった。引っ越直後だったので、整理が終わったばかりのおびただしい本が床に散乱し、本の洪水になったことが最大の被害だった。

 その時、水道は数日間断水し、停電も丸一日くらい続いたと思う。
 ただ、ガスは、液化石油ガス(LPG)だったので、屋外のガスボンベのそばにある遮断機で止まっただけだった。これは、僕が「復帰操作」をして、すぐ元に戻り、使用可能になったことを覚えている。

 地震の程度も違うので単純に比較できないが、都市ガスのように大規模で集約的なシステムより、個人の住宅ごとに独立したガス供給システム(「システム」というほどのものではないが)は、小回りがきいて、ダメージを受けにくいことは確かだ。

 電気にも同じだろう。
 大規模な発電所から地域全体に供給される現在のシステムは、地震にも弱い。そして、肝心の大本の原子力発電所が壊れて、大騒ぎになっているのだ。

 工場や鉄道、ドーム球場や遊園地など大電力を使う施設は別だが、家庭で使う電気には、発電の方法はたくさんあるはずだ。燃料電池、太陽光、小規模な風車、水車などなど。
 半導体技術の進歩で交直流間の変換も手軽になっている。
 みな、なぜそれを進めないのか?

 電力会社やそれが作り出す利権に群がる政治家の思惑に乗せられていると考えるのは僕だけだろうか。

 水力発電のためのダムを造りまくっていた時代もあった。そのために自分の生家や育った集落が水没した経験を持つ人々もいる。火力発電所もしかり。

 まして、原子力発電所は桁違いの規模で人々に犠牲を強いている。

 大きいことは良いことか?
 大福餅やチョコレートなら大きい方が良いが、何でもかんでも大きけりゃ良いというものではないと思うのだが。  

2011年4月3日日曜日

きょうは、幸福について考えた

 人生は、もっと単純で良い。
 愛する家族がいる。
 愛する犬が、猫が、馬がいる。
 日々の食物が得られる。
 たまに美味しいものが食べられる。
 安心して住む場がある。
 寒さや雨、露をしのぐ衣類がある。

 他に何が必要だろう?
 このままで、人生や世界、宇宙のことも考えられるではないか。

 電気エネルギーが必要なら、太陽光、小さな風車、小川の流れで回る水車、場所によっては地熱などで、まかなえるはずだ。

 こう考えてくると、「経済成長」というものが何のために必要なのかさっぱりわからい。

 経済成長など不要ではないか。
であれば、それを支える大規模な発電所など不必要なはずだ。
 そして、当然放射能による汚染も無くなる。

2011年4月2日土曜日

「大将」の死

大将が死んだ。
 「大将」と名付けた野良猫である。
 国道をすっ飛ばしている身勝手な自動車に轢かれた。

 川を渡ってわが家に遊びに来ていた。飼われている家でも、「自分の家のネコ」という自覚はなく、外で餌を与えるのみだったらしい。

 なかなかヒトに馴染もうとせず、孤高をつらぬいたネコだった。
 かと言ってヒトを拒むこともせず与えられる食べものは遠慮せずに食べてくれた。
 わが家でもたまに彼をもてなした。

 賢く、用心深い彼が、何故国道を走る車を避けきれなかったのか、不思議だ。


 かつてわが家で暮らしていた動物たちの隣に並べて大将が眠るための穴を掘った。
凍土はまだ、固く地表を覆ってい、スコップをはね返すほどに固かったけれど、ひたすら掘った。掘っているうちに涙腺に痛みを感じた。
 ニンゲンは、どこまで動物に冷酷なのだろう。自分が生きるために他の命を奪う場合を除いて、他種の命をこれほど虐げた動物が地球上にいただろうか。

 原子力発電はその最たるもので、これまで、現在、これから、どれほどの命を奪うことになるのか、やはり存在自体が罪悪だ。そして何も考えずにその恩恵を受けている、または今後も平気で恩恵を受けることを厭わないニンゲンたちも同罪かもしれない。

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大将が死んだ。
 「大将」と名付けた野良猫である。
 国道をすっ飛ばしている身勝手な自動車に轢かれた。

 川を渡ってわが家に遊びに来ていた。飼われている家でも、「自分の家のネコ」という自覚はなく、外で餌を与えるのみだったらしい。

 なかなかヒトに馴染もうとせず、孤高をつらぬいたネコだった。
 かと言ってヒトを拒むこともせず与えられる食べものは遠慮せずに食べてくれた。
 わが家でもたまに彼をもてなした。

 賢く、用心深い彼が、何故国道を走る車を避けきれなかったのか、不思議だ。


 かつてわが家で暮らしていた動物たちの隣に並べて大将が眠るための穴を掘った。
凍土はまだ、固く地表を覆ってい、スコップをはね返すほどに固かったけれど、ひたすら掘った。掘っているうちに涙腺に痛みを感じた。
 ニンゲンは、どこまで動物に冷酷なのだろう。自分が生きるために他の命を奪う場合を除いて、他種の命をこれほど虐げた動物が地球上にいただろうか。

 原子力発電はその最たるもので、これまで、現在、これから、どれほどの命を奪うことになるのか、やはり存在自体が罪悪だ。そして何も考えずにその恩恵を受けている、または今後も平気で恩恵を受けることを厭わないニンゲンたちも同罪かもしれない。

2011年4月1日金曜日

レティクル(照準線)の向こうに見える知床

息を止め、静かに接眼レンズに目を近づける。
 十字のレティクル(照準線)の中心と左前胸部を重ね、そっと握るようにトリガーを引く。轟音とともに強烈な反動が生じる。肩に食い込む銃床の重みを受け止めつつフォアエンドを前後に動かし、次弾を装填する。装填しながらスコープを覗くとエゾシカが転がり落ち、途中で大きくバウンドしてコンクリートの擁壁の上で止まるのが見えた。

 2月と3月の毎週末、羅臼町内でエゾシカの有害駆除が行われてきた。
 そして、月末の3日間は新人ハンター研修として、ベテランの指導を受けながら駆除の実習をさせてもらうことになった。
 「本番」の駆除の場面では、少しでも多くのシカを捕獲することが目的なので、新人ハンターはなかなか積極的に発砲できない。どうしても先輩に譲ることが多い。
 そこで猟友会の計らいで、期間が終わる直前の三日間を新人優先の機会を与えてもらえたというわけである。
 この期間は、ベテランの助言を受けつつ、堂々と初弾を撃たせてもらえる。

 北海道のエゾシカの個体数は、異常な増加の後、なかなか減ることがなく、知床でも希少植物や樹皮への食害が激しく、大きな問題になっている。シカを補食するオオカミをニンゲンが絶滅させてしまったいま、エゾシカの天敵はいなくなってしまった。
 ハンターが天敵のニッチェ(生態的地位)に就くことは不可能だが、少しでも増加を食い止められれば、との狙いで有害駆除が行われている。
 厳しい寒さが緩み、草も人々も、そして、シカたちもホッとしてのびのびと時をおくろうというこの時期、シカたちに銃を向けるのは少々気が引けないわけではない。
 だが、知床の自然をなんとか良い状態に保ちたいという思いも強くある。
 こんなジレンマを抱えつつスコープを覗くのである。

 これも、ニンゲンが自然界でしたい放題の自分勝手な行いをしまくったツケである。いわば先人の愚行の尻ぬぐいだ。

 髪の毛の先ほどの煩わしさ除くために電気に頼り、無駄遣いし放題だったツケを将来の子孫に支払わせるなんて、どうしても止めてもらいたい。