2011年4月14日木曜日

「パパラギ」で授業をする

今日は「環境保護」の授業で「パパラギ」について話した。
 授業の流れに沿って少し紹介したい。

 「パパラギ」は、1920年に画家で作家のE・ショイルマンによってドイツで出版された。サモアの酋長ツイアビが訪問したヨーロッパについて話した演説をまとめたという形をとっているが、実際はショイルマンの手になるフィクションであると考えられている。 「パパラギ」とは「白い人」、「外国人」の意である。この本では、ツイアビがヨーロッパを訪れて見た「パパラギ」について語るという形で、欧米文明の批判が展開される。
 
 このツイアビが実在の人物かどうかはさておき、ここに書かれている近代文明への批判には耳を傾ける価値があるのではなかろうか。

取り上げたのはパパラギの演説のうち、二番目として載っている部分だ。

以下引用(エーリッヒ・ショイルマン著 岡崎照男 訳:ソフトバンク文庫より)

 それからパパラギは、わたしたちのことについてこうも言っている。
 「きみたちは貧しく不幸せだ。きみたちには。多くの援助と同情が必要だ。きたちは何も物を持っていないではないか」」
たくさんの島々の愛する兄弟たちよ。物とは何か、おまえたちに告げよう。
たとえばヤシの実はひとつの物である。ハエたたきも、腕輪も、食事の皿も、髪飾りもすべてこれらは物である。
 しかし、物にはふたつの種類がある。ひとつはヤシの実や、貝や、バナナのように、わたしたち人間が何の苦労も労働もせず、あの大いなる心が造り出す物である。いまひとつは、指輪や、食事の皿や、ハエたたきのように、たくさんの人間が苦労し、労働をして作り出す物である。アリイ(紳士)が言う物とは、彼が自分の手で作った、人間が作った物のことであり、私たちが何も持っていないと言われるのは、こうした物のことである。しかし、大いなる心が造り出す物について、アリイはひとことも言えるはずはない。そう、いったいだれが私たちより豊であり、だれが大いなる心の造り出した物を、私たちより
たくさん持っているだろう。
       ▲「大いなる心」というのは、自然とか神とかの概念だ、
         ということを話し合いで気づかせる。(授業中の補足説明、以下同じ)
      <中略>
 私たちはとうてい、大いなる心のなす業をまねることはできない。なぜなら、大いなる心の持つ力に比べ、私たちの心はあまりに小さく、あまりに弱い。さらになお、私たちの手は、力強い大いなる手に比べてあまりにも弱すぎる。私たちにできることは貧しく、語るに足りない。
 私たちは棒を使って手を長くすることもできるし、タノア(四本脚の木の皿)を使って手のひらを広げることもできる。だが、サモア人のだれも、パパラギのだれでさえ、いまだかつて一本のヤシの木、ひと株のカバの木さえも作ったことはない。
       ▲現代の文明でさえ植物の手を借りずに光合成を試験管の中で行わせるこ        とはできない。
        人間が誇る「科学技術」などその程度のモノだということを確認する。

 いうまでもなくパパラギは、そういう物が作れると信じている。大いなる心と同じように強いと思っている。人間が作る物、私たちにはそれが何のために使われるのか見当もつかず、美しいとはとうてい思えない。
<中略>
 兄弟たちよ、おまえたちにはわかっている。私が嘘を言っていないこと、そしておまえたちに真実見たままを語っていることが。私は何も付け足しはしていないし、何もおとしてもいない。ヨーロッパには自分の額に火の管を当て自分を殺してしまう人たちがいる。これは本当の話なのだ。<中略>
   ▲「火の管」とは銃のことだろうね。
 だから私はヨーロッパで、邪魔にされないで手足を伸ばし、ゆっくりむしろの上に寝られるような小屋にであったことがない。すべての物がギラギラ光ったり、色が大声で叫んだりして、目を閉じることさえできなかった。本当に安らいだ夜は一度もなかった。寝むしろと枕のほかには何もない、海を渡るおだやかな季節風のほか、何も訪れてこないサモアの私の小屋のことを、あれほど恋しく思ったことは一度もなかった。
 少ししか物を持たないパパラギは、自分のことを貧しいと言って悲しがる。私たちならだれでも、食事の鉢の他は何も持たなくても歌を歌って笑顔でいられるのに、パパラギの中にそんな人間はひとりもいない。
<中略>
 物、どれもこれも簡単にこわれてしまい、火事のたび、強い熱帯雨のたびにめちゃめちゃになり、いつも新しく作りなおさねばならない、物。
 ヨーロッパ人らしいヨーロッパ人ほど、たくさんの物を使う。だからパパラギの手は休むことなく物を作る。それゆえ、パパラギの顔はたいて、疲れていて悲しそうだ。だからあの大いなる心の造った物を見たり、村の広場で遊んだり、喜びの歌を作って歌ったり、あるいは安息日に日の光の中で踊ったり、私たちすべての人間がそう定められているように、さまざまにからだを動かして楽しもうとするひとは、ほとんどいない。
 彼らは物を作らねばならぬ。彼らは物を見張らねばならぬ。物は彼らにつきまとい、小さな砂アリのようにかれらの肌をはい回る。彼らは物を手に入れるために、冷酷な心であらゆる罪を犯す。彼らは男の名誉のためでも、力比べのためでもなく、ただただ物のためにのみ、たがいに攻撃し合う。


長い引用になってしまって申し訳無かったが、ここに書かれていることを是非とも若者たちに伝えたかった。

「デルス・ウザーラ」も同様だが、「文明人」の中に、自分たちの属する文明を鋭く批判する著作がある。
 それこそが文明の進む道を示す指標であり、危うい方向に向かった時の木鐸なのではないだろうか。

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