2011年5月11日水曜日

原子力発電事故からの二ヶ月を振り返って

 大震災から二ヶ月。
 この間、毎日、原子力発電に反対する立場から書いてきた。
 書くネタがよく続いたと自分でも感心する。
 原子力や電気について特に専門家でもなく、なんの知識も持ち合わせていない自分が、と思うからだ。

 そんな素人でも見えてきたものがいくつかある。
 その一つは原子力発電から生じるお金に群がる様々な人々の構図である。
 電力会社はもとより大手ゼネコン、学者、広告会社、CMに出演するタレント、官僚の天下り先などなど。さらに、補助金を当てにする自治体も含めて、実に多くの組織やヒトが巨額の税金が投入される原子力発電に群がっている。
 さらに、そこに地球温暖化二酸化炭素原因説が「追い風」となって吹いている。
 「安全神話」は同時に「儲かる神話」でもあった。

 僕は、反科学技術論者でもない。それどころか、科学技術は人類の進歩に貢献するものだと信じている。
 「平和望む人のために捧げよう、わが科学」という一節を学生時代からずっと心に刻んできた。だから、例えば殺虫剤が一定の段階までは人類の食料生産を伸ばすことに貢献し、様々な疾病から人類を救ってきたと考えている。

 もちろんそ農薬は、環境の悪化を招いたマイナスの側面をも持っているわけだが、物事を一面的に見ることはしないつもりでいる。

だから、ひょっとしたら原子力自体は将来の人類にとって、幸福をもたらすエネルギーになり得るのかも知れないとも考える。今の原子力利用のあり方には強い批判を持っているが、原子力そのもを将来にわたっても頭から全面否定しようとは思っていない。

 だが、現在の日本の原子力利用に関しては、安全性に関してあまりにも公平さを欠く評価しかなされていないと思った。カネの力で最初から強引に結論を押しつける、一種のファシズムがまかり通っている。

その強引さ、その非人間性、その独善性、その犯罪性に対して強い憤りと危険を感じる。

 だから、原子力発電所の問題は、原子力発電という技術の問題である以前に、社会構造とか政治体制の問題であるのだと思う。

 今まで、深く考えることのなかった問題だったが、原子力発電をめぐる構造について、少しずつ見えるようになったことがこの二ヶ月間の大きな収穫だった。

 以上、一つの節目としてこの二ヶ月間を振り返って、感じたことをまとめてみた。

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