2011年5月22日日曜日

モラトリアまない若者たち

 伯母の葬儀で、長い間会うことの無かった親類と会って話をすることができた。
「故人の引き合わせ」というモノだろう。
 前回会った時は幼稚園児や小学生だった子が大学生になっていて驚いた。
 
 今年、従妹の息子で、大学に入学した男の子が、自分の進路についの悩みを話してくれた。
 どんな進路を選ぼうかという悩みではない。それどころか彼は、自分の進路をハッキリ決めていた。そのうえで、その道に進むことに失敗したらどうしようか、と悩んでいた。

 いわく。
 「自分の就きたい職業に向けて勉強を進めるのだが、いざ就職となった時に、経済情勢や政治状況で採用されなかったら、それまで勉強してきたことが無駄になってしまうんじゃないかな」。

 自分の目指す大学に入学し、次の段階で卒業後の就職を考えているという堅実さに感心した。
 同時に、自分の生涯にわたる職業経験の展望を硬直的にとらえすぎているところに一種の危うさを感じた。

 帰ってきてから新聞を読んでみると、驚いたことにこれとそっくりの相談が載っていた。 それによると、
 「自分の夢に関係のない事柄にはまったく興味がわかないし、やる気も起きません。人 に対しても、自分にプラスの影響を与えてくれそうと思えば積極的に関わろうとします が、この人は自分に何ももたらしてくれないと感じると接触を避けてしまいます」というものだった。(5月21日朝日新聞:「悩みのるつぼ」より)

 今の「しっかりした若者」は、このように自分の利益につながることには積極的で、そうでないものとの関わりを避けようとする傾向を持っているように思う。

 自分の人生や進路について真剣に考えている真面目な若者ほどこの傾向が強いようだ。

 彼らの受けたキャリア教育は、その根底に致命的な誤りを含んでいる思う。
 つまり、人は、何のために学ぶかという問いにキチンと答えないまま、利益誘導ばかりを全面に出した、貧弱なキャリア教育しか行われていないということだ。

 キャリア教育に限らず、科学技術教育でも「役に立つ」ことしか教えず、「無駄なこと」は教えないという選択が行われている。
 そして、その行き着いた結果が原子力発電所の事故だ。
 「国策」の旗を押し立てて、無理を通して道理を蹴散らした原発は、いま、牙をむいて国民を蹴散らし始めた。

 若者たちに感じた危うさは、教育全体から立ち上る危険な匂いであり、この国の禍々しさであるような気がする。

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