2011年5月14日土曜日

早春の根北峠

 知床ユネスコ協会の総会が開かれ、根北峠(こんぽくとうげ)を越えて斜里まで往復した。
 この峠は知床半島の脊梁山脈から斜里岳などと含み摩周湖・屈斜路湖、さらには阿寒方面へと続く道東を二分する山塊を越える峠で、国道244号線が通っている。
 早い話が知床の山を横断する峠だ。
 夏の間は知床峠・国道334号線が通って半島を横断できるが、冬期間の半島横断には根北峠を使うしかない。
 現在、知床峠は午前10時から午後3時半まで開通しているのだが、総会の開会時間に間に合わせるためには、午前10時を待っていられなかったし、昨日からの悪天候で確実に開通するかどうかわからなかったので、334号線は使わなかった。

忠類川に沿って登り、斜里川の流れに沿って下る。
 根室管内標津町から網走管内斜里町まで約40キロメートル。昼間でもその間にすれ違うクルマは一桁だ。一台のクルマにも出会わない時も少なく無い。
 それでも、この道は、江戸時代の国名で根室の国と北見の国を結ぶ重要なルートだ。北海道に和人が入り始めた頃、標津と斜里を結ぶ船便は知床岬を大迂回しなければならなかった。その道のり150キロメートル。
 山に分け入り、陸路を開けばずっと楽な通行ができる、というのでこの道は江戸時代・19世紀初頭に幕府によって開削されている。
 もちろんそのそれよりはるか以前からアイヌ民族の人たちは、知床半島を横断するルートをいくつか使っていて、この峠もその一つだった。

 この峠の斜里側から旧石器時代の人々の野営の跡のような遺跡が発見されている。この旧石器時代人は、マンモスを追って移動する人々=マンモスハンターであったと言われている。
 そして、人類はこの時代、マンモスに対して非常に大きな狩猟圧をかけていて、これがマンモス絶滅の原因の一つになったのだそうだ。

 素朴に自然の恵みを享受していたように思える人たちですら、もう既に結果的に自然を大きく変える働きかけをしていたのだろうか。
 ヒトという生物が背負っている業(ごう)のようなものを感じる。

 峠はまだ所々に雪があり、冬と春が交錯しいる景色だった。
 フキノトウなどもまだ顔を出したばかりのものもあり、頂上に近づく道程は季節を遡っているかのようだった。
 ああ、こうやって時間を逆行することができたら震災も津波も原子力発電所事故も防ぐことができるだろうか、などとふと考えた。

 今日の総会ではセイヨウオオマルハナバチの駆除事業について説明した。
 セイヨウオオマルハナバチも人の欲望が作り出した侵入昆虫である。

 ニンゲンは、もうどうしようもなく自然と対立する所まで来てしまっているのだな、などと考えて、なんとなく気の重い峠越えを終えた。

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