2011年6月18日土曜日

原発カルト

 福島第一原子力発電所で高濃度汚染水の処理が本格的に始まった、と思ったら5時間で止まった。

 NHK名物ロボットコンテストを連想した。
 卓抜なアイディアは、見る者を感心させる。だが実際に動かしてみると思いもよらぬトラブルが発生する。
 高校生たちは、トラブル解決に、知恵を出し合って頑張る。その姿に観る者はさらに感心し、感動を覚える。

 ロボットコンテストは面白い。高校生たちもよくがんばっている。だからこれはこれで良。好感をもって見ていられる。

 だが、これと同じことを原子力発電でやられたのではたまらない。いま、福島で行われているのは、まさに高校生のロボットコンテストのような技術上の悪戦苦闘であろう。

 原子力発電所はカネを湯水のように注ぎ込むから、立派な外観を備えていて、安定した技術力の上に建造され、運転されているように見える。
 けれども、それは外観だけなのだ。見かけを重視する日本の技術が作っているのだから間違いなく立派に見える。この点は高校生たちの作品とは大きく違う。

 しかしその技術は、安定したものとはほど遠く、試行錯誤を繰り返しているのは高校生たちと大差がない。
 また、技術をどのように発展させるかを決定する技術思想が、生命や健康よりも「採算」や「効率」を優先させるものだろうから、今回のような事故が起きると、どうしようもなくなるのだろう。

 現場の技術は高校生の作るロボットと大差がないのではあるまいか。
 ヘリコプターからの放水(散水と言った方がいいかも知れない)、トレンチに漏れ出ている汚染水を止める処置など、事故を起こしてからの一連の対応を見ていると、原子力を安全に制御する安定した技術的な背景を持たず、ただ、生じた現象を止めるだけのために右往左往しているように見えて仕方がない。
 日頃から自慢していた「日本の最先端の技術」というのはこんなものだったのだ。
 われわれは、あらためてこの認識から出発しなければならない。

 今、日本で「原子力発電は安全だ」と主張している人は、その根拠を示せるか?
 無理なことに違いない。
「何があっても安全だ」と根拠を示して言ってみるがいい。言えないだろう。

 根拠が揺らいでいるだとしたら、
 「安全だ」という発言は、主張ではなく願望に過ぎない。

 今日も、TVのニュースを見ていたら、原発近くに住む普通の人々の中に「安全です」と答えていたオトーサンがいた。

 もう、こうなると一種のカルトと呼んでもいいかも知れませんね。

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