2011年6月24日金曜日

こんな生き方に誰がした

 国内最大の放送局に勤めるあるカメラマンの話。
とある町で、上関原子力発電に反対する人たちの姿を描いたドキュメンタリー映画の上映会が計画されていた。
 上映会成功を目指して熱心に活動する実行委員の話を聴き、取材して紹介してみるよう勧められた。
 彼(彼女かも知れない)もその運動の重要さに気づき放送で取り上げることを考え、上司に相談する。
 上司いわく、「それは偏った映画だから取り上げるわけにはいかない」

 ここに二つの深刻な問題があると思う。

 報道機関として、原子力発電に反対する市民が一定数存在し、その意見を広めるために上映会等を企画していることをニュースにすることはなんら「偏った」ことではない。
 むしろ社会の木鐸として、弱い者、虐げられた者の側に立ち社会正義を貫くのがジャーナリズムの基本ではないのか。
 その「上司」の姿勢は笑止である。

 そして、それより問題なのは、「上司に止められたから」という理由で、アッサリ手を引いてしまうその本人である。
 ジャーナリストとしての矜持は無いのか?
 「上司」の顔色を覗うことを最重要視して人生を過ごす、情けない人間で一生を送るのか?
 良心よりもやっとたどり着いた「本採用」が大切なのだろうか?

 日本の社会はここまで来てしまったんだな、としみじみ感じた逸話である。

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