2011年9月4日日曜日

「持続可能性」への疑問

 前から感じていたことだ。
 カタチになっていなかったが、漠然とした不安のようなココロのざわめきとして、それはあった。
 「持続可能性」という言葉には、ある種の危険な匂いが含まれているのではないかということだ。

 「持続可能性」は、現代の環境教育のキーワードだし、持続可能な社会をつくることは、現代の人類に課せられた重要な課題であり、そのための教育がESDである。いま、多くの国の学校ではESDを実践し、ESDを標榜するユネスコスクールも増えてきている。
 日本国内においても同様だ。
 「持続可能な発展のための教育」、または、「持続可能な未来のための教育」は、今後ますます重要性を増していくし、教科横断的に展開されるだろう。
 現代の教育が突き当たっている様々な課題の壁を突き破る突破口ともなりうるかも知れない。

 「持続可能性」という概念は、1987年に国連のブルントランド委員会報告書である「Our common Future(地球の未来を守るために)」によって確立されたとされている。  ブルントランドさんは医師で、当時ノルウェーの総理大臣だったと聞いた。
その功績は大きい。

 だが、「持続可能性」という言葉を多くの人が口にするようになるにつれてその解釈は多様になり、内容の異なったいくつもの定義が出現してきた。
 この報告書によると「持続可能的開発」とは、
1:未来の世代が自分たち自身の欲求を満たすための能力を減少させないように現在の世  代の欲求をみたすような開発。

2;地球上の生命を支えている自然のシステムーーー大気、水、土、生物ーーーを危険に  さらすものであってはならない。

3:持続的開発のためには、大気、水、その他自然への好ましくない影響を最小限に抑制  し、生態系の全体的な保全を図ることが必要である。

4;持続的開発とは、天然資源の開発、投資の方向、技術開発の方向付け、精度の改革がすべて一つにまとまり、現在および将来の人間の欲求と願望を満たす能力を高めるように変化していく過程を言う。

 以上の4点にわたって定義されている。
 要するに「自然生態系の保護」と「未来世代の利益を守る」ことの二点に集約されていると言える。

 しかし、例えば化石燃料について考えてみれば、現実には未来世代と現在の世代との間で資源の奪い合いが生じる構造になっている。
 
 実際、
 「1970年代までの保護運動は、生命重視の価値観にもとづき、森林、水、土壌、野生生物は、それ自体が保護に値すると考えられていた。しかし、1980年をもって世界的な認識の変化が顕在化する。その結果、自然を保護することよりも、経済利用のために自然資源の経済性を保護することが重要視されるようになる。持続可能性の位置づけは、いつの間にか自然から開発に移って行く。一言で言えば、持続可能性は自然の保護ではなく、開発の保護になったのである。」(ヴォルフガング・ザックス「地球文明の未来学」)

 ブルントランド報告書とそれへの批判は有名な論争だが、もっと皆が真剣に考えてみなければならないだろう。
 「持続可能」と唱えただけで、すべて許されるほど現実は甘くない。
  特に、化石燃料など再生不可能な資源の扱いについては、いまだに論争が続いている。
  さらに汚染物質の持続可能な排出速度についても同様だ。
 
 「持続可能性」は、今後の問題を考える出発点と位置づけなければならない。

0 件のコメント:

コメントを投稿