2011年9月5日月曜日

「持続可能性」ということ その2

 昨日、「持続可能性問題」について書いたが、書いているうちに問題の大きさと深刻さで、頭が混乱してきた。
 混乱して、思考の持続が不可能となった。で、途中で投げ出してしまった。

 今日、その続きを考えてみた。

 やはり、どうしても引っかかるのは、再生不可能な資源の利用に関する問題だ。
 ブルントラント委員会報告によると
「再生不能資源は、それを使用すれば当然将来利用可能な量は減少する。しかし、だからといってこれを使用してはならないということではない。その資源の重要性、減少速度を最小限に抑える技術をどれだけ利用できるか、それに代わる資源の可能性も考慮したうえで使用すべきである」としてある。
 だが、これは、
「枯渇するまで注意してゆっくり使いましょう」と言っているようなものではないか。
 つまり、枯渇資源依存からの脱却のシナリオが示されていないのである。

ブルントラントさんに悪意は無かったかも知れないが、多くの企業や個人は、「持続可能性」を環境負荷増大の免罪符に使っているのではないか。
 「持続可能性」という言葉に対して漠然と危険な匂いを感じる根拠はこれである。

 石油に代わるエネルギー資源として、天然ガス、オイルシェール、石炭など次々に化石系の燃料を使うアイディアが提案されている。だが、これらも使えばいつか無くなるものだ。
 原子力に依存したところで、ウランの埋蔵量は有限だし、今回の事故の規模とその悲惨さを考えれば、とうてい「未来のエネルギー源」にはなれそうもない。
(してはいけない)

 有限なエネルギー資源は、使い尽くしたら終わりという冷厳な事実から逃れることはできない。
 結局は、再生可能なエネルギー資源を開発するしか道は残されていないのだ。

 再生可能なエネルギー技術の開発は何よりも優先されなければならない。
 しかし、現実は、石油の利権を確保するためにアメリカなどは、(多量の燃料を使ってまで)戦闘機を飛ばしたり戦車を走らせたりして武力行使も辞さない姿勢を示す。
 そこに投下する情熱とエネルギーで、再生可能なエネルギー技術の開発になぜ取り組もうとしないのか。
 やはり、投下したエネルギーに見合う利益が上がる確証がないからだろう。
 つまり近視眼的に「費用対効果」を考えるからだろう。
 競争原理や資本主義の限界がそこに見えてくる。

彼らは、自分たちの子どもや孫、その子どもたちの暮らす世界のことを考えないだろうか。

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