2011年9月16日金曜日

環境教育の憂鬱

 新エネルギーに関する授業を見た。
 よく工夫された、優れたじゅぎょうだったが、惜しいなと思ったところがいくつかあった。

 新エネルギーへの模索をするのはいい。
 しかし、今のエネルギー消費の形態をそのまま持続するという前提で展開するのはどうだろう?
つまり、工業生産を中心に、経済活動が無限に成長するということを前提にしているのだ。これでは、エネルギー源がどれだけ豊富にあっても足りないわけで、原子力発電からの脱却など実現できるはずはない。

 エネルギー問題を考える大前提は、経済成長の持続がなければ社会が成り立たない、という盲信を捨てることだと思う。
 世界の人口が70億人に達し、農地の生産性を限界まで引き上げ、狭い農地から可能な限りの食べ物を収奪する一方で、モノを作って売りまくってカネを儲けることだけを狂ったように追い求める世界では、命をはぐくむ環境など望めるはずはない。

 せっかく、大平原の農業地帯にある学校でのエネルギー授業なのだから、この根幹に切り込んでほしかった。

 バイオマスだ、太陽光だというのはあくまでも技術上の問題で、重要なのはそれを推進する価値観や世界観、哲学ではないだろうか。
 教室というのは、そういうことを語る場ではないだろうか。

 想像だが、教師は、気後れしたのではないだろうか。
 自己規制が働いたのではないだろうか。
 もっと信念をもって環境の未来を語ってほしい。

 信念のない教師は、信念のない生徒しか再生産することはできない。
 

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