以前にも書いたが、東京電力福島第一発電所の事故によって多くの飲料水や食品が汚染された。
汚染した(と思われる)地域で作られた食品は、可能な限り食べたくない、食べさせたくないと考える人は、多いだろう。
その結果、汚染が疑われる食品の売れ行きが落ちることを「風評被害」と呼ぶようになった。それは今でも続いている。
「風評」とは事実無根の噂のことだ。
この場合、「汚染された」のは事実でだから「風評」と呼ぶのはおかしい。たしか、以前にこんなことを書いた覚えがある。
政府の対応はすばやかった。
2011(平成23)年3月25日の第373回 食品安全委員会で「食品の暫定基準値」を決めている。
これ以下のものは「直ちに影響は出ない」とした。
オカミが「お墨付き」を与えたわけだ。
ところが問題が出てきた。
まず、「お墨付き」そのものへの不信。
ヨーロッパなどの基準値に比べてあまりにも甘すぎるのである。だから、暫定基準値以下でも東電のまき散らした放射能の影響を受けている食品は結局は消費者に拒否されてしまう。
学校給食やコンビニの弁当、ファミリーレストランなどでに密かに使ってしまおうと画策されているが、消費者にはそれらを拒む権利がある。権利を制限され、強制的に汚染されている食材を食べさせられたくないものだ。
さらに米などは、「安全宣言」が出されているのに、汚染されていたという事実も明らかになった。これは、汚染状態の把握そのもに問題があったことを示しているが、オカミの行う「測定」や「評価」は、客観性を欠いたものだということを示す証拠になる。
だから放射能汚染に関して、オカミへの不信は高まる一方で、もはや全く権威が失墜たとしか言いようがない。
さらに、「暫定基準」や「安全の基準」の根拠が研究者によってあまりにも違いすぎる。
人体という複雑な構造とはたらきを持つ場は、実は宇宙のような多様性があり、年齢や性別によって大きく違うし、個人ごとにも異なる。
われわれの身体は300万年かかって作られたのだ。
それに対して、放射線と人体の健康に関する研究が始められて、まだ百年も経っていない。研究者によって考え方の差が大きいのは当然なのである。
そしてそこに、政治的な立場、または利己的な打算でものを見る研究者が入り込んでいるから話はまずます混乱するだろう。
繰り返すけれど、核エネルギーと人類との付き合いは、まだ百年にも満たない。放射線の人体への影響に関する評価も定まっていない。
そういう時は、今、考えられる限りの最大限の安全策をとることを前提に評価して「安全のための基準」をつくるべきではないのか。
全国的に、過去1000年間の津波被害を再調査して、対策を建てているのは、「最大限の安全」を追求しているからではないのか。
あまつさえ、放射能については、まだ百年の付き合いしかないのだ。
「風評だ」と決めつけ、安全を求める人々の声を封じてはならない。
「風評だ」と決めつけることこそ根拠の無い噂ではないだろうか。
「風評という風評」は、ただちに止めるべきだ。
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