2011年12月13日火曜日

知床学士検定が近づく中で考えたこと

18日に知床学士検定試験がある。
 羅臼町内の中学生と高校生が受験でき、今年は約40人が、3級から1級までの「学士」に挑戦する。
 問題作成をしている僕は、いま、事前講習会で忙しい。
 問題作成者が事前講習をすることは、アヤシイと思われるので何とかしたいのだが、この制度は、発足してまだ3年目なので仕方のないことでもあるのだ。
 次回あたりからそろそろ、出題者と講習会講師との分離を検討してもいいと思う。

 それにしても、講習会の講師をするのは楽しい。
 目の前に検定試験という目標があるから、生徒は熱心に話を聴き、考えてくれる。生徒の知らないことを説明すると、うなずきながら聴いてくれる。
 普段の教科の授業では味わうことの少ない醍醐味と充実感を感じる。

 この経験は、ささやかな地域学習の場面に過ぎない。しかし、「学力」ということについて、ふと考えさせられる。

 知識偏重の「詰め込み型」の学習の問題点を反省し、「ゆとり教育」の必要が指摘され奨励された。
 ところが、国際的な「学力」の低下が問題視され、一転して学習の強化が叫ばれるようになった。
 国の方針が、このように正反対の方向で振幅していては、当の子どもたちはもちろん、現場の教師たちまでも混乱させられる。

 読み書き、計算、意思表明、コミュニケーションなどの能力は、確かに重要で、子どもたちのこれらの力を初等・中等教育を通して、存分に伸ばしてやることはオトナの務めだと思う。
 今までの教育政策は、不十分ながらも、それを第一番に願って進められてきたと思う。だが、そこで決定的に欠落していたものがあった。
 それは、自分が身につけた様々の能力を何のためにどのように活用するかを、学ぶ者ひとりひとりに考えさせ、個々の価値観や世界観、人生観、歴史観を形成してやるという、言葉の正しい意味におけるキャリア教育である。

 「キャリア教育」と聞くと、反射的に面接の受け方とかお辞儀のしかたとかの就職試験で成功するための技術を身につける学習を重い浮かべるかも知れないが、本当は違う。
 本来のキャリア教育は、自分の人生を社会とどう関わらせていくか考える力を養うことがの目的だと思う。現実には、先に述べたような、「就職教育」に堕している場合が多いのだが。

 日本の教育は、「ゆとり」で行くとしても、「詰め込み」でいくとしても、その前に徹底的に「何故学ぶか?」を考えさせてから、学習活動に入るべきだったのだ。

 そのあたりが上手くいかなかった結果、優秀な人材が原子力ムラの構成員になったり、オウムへ流れたり、一部の企業に囲い込まれ、企業の利益だけのために行動する人間に墜ちてしまったり、おかしな政治家になったりしたのではないだろうか。

 知床についての学習を進めながら、こんなトホーも無いことをあれこれと考えた、今日の講習会であった。

0 件のコメント:

コメントを投稿