2012年1月30日月曜日

続 富良野への小さな旅

昨日の続き。

環境を汚すことを批判したり反対したりする時、われわれはどのような理由を並べるだろう。
 普通は、健康への心配というのが一般的によくあるのではないだろうか。子どもやお年寄りなど弱者の立場に立って考えてみる。
 それは、もちろん必要なことだし、大切なことだ。今回の原子力発電所事故に際しても子どもへの影響がもっとも心配されている。

 それは、まったく正しいことだ。
 だが、同時にその自然環境で生きるあらゆる生物、生命活動を営んでいる存在のことも考えるべきなのだ。そうしなければ、生態系を保全することにはならず、生物がつながりをもって生きているシステムが保全されなければ意味がない。

 希少種だけを保護して、「種の保全を果たせば、開発行為が許される」という発想は、開発を推進する側の論理として、しばしば派手に振り回されるが、そんな考え方は何十年も前から破綻している。どうして、いまだにそんな綻びた論理がまかり通るのだろう。
 もちろん、それは、何が何でも開発行為を推し進めたいからに他ならない。

 「マロース」はそんな人間の奢りを諫める野生生物たちの無言の訴えを形にして見せてくれたと思う。その真摯な訴えが心を動かしたのだと思った。
 日頃から野生動物に接する機会が多く、浅学であっても彼らの事について学んでいると、野生動物が人間にどんなことを訴えたいのかが伝わって来るように感じていた。
 彼らは決して主張しない。反対運動も起こさない。人間が環境に手を加えれば、黙って立ち去るだけで、後から訴訟を起こしたり恨み言を言ったりはしない。

 だが、その心の内を、僕たちは想像するのだ。
 そして、その想像の通りの台詞を、倉本聰さんは、芝居の中で言わせてくれたのである。

 昔、根室と釧路の間に高規格道路を通し、根室市の温根沼に新たに高い橋をかける計画が持ち上がったことがあった。その時の環境影響評価書に
「ハクチョウの衝突なども予想されるが、ハクチョウは特に重要な種ではない」という記述があった。
 僕はそれを読んで、心の底から怒りがこみ上げてきたのを覚えている。
20歳代の頃から興味を持ち、深い関わりをもっていたハクチョウが侮辱され、悲しくやりきれない気持ちになっていたのだ。
 
おそらくその時の僕と同じ気持ちで(いやそれ以上に深く理解した上で、であろうが)この物語が創られていたこと、そして、富良野の森の中にある劇場で、その物語と出会うことが出来たことが、たまらなく嬉しかった。

 一泊二日間の短い旅だったが、40年間の放浪の末に安住の地を得たような、満たされた思いを味わった。

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