2012年1月9日月曜日
環境影響評価書に足りていないものについて
「琉球新報」の社説がフェイスブックで紹介されていたので読んでみた。
読んでみて、驚き、少し嗤った。
http://t.co/ebEMKMj7
アセスメント会社の行うアセスメント(環境影響評価)は、いつも胡散臭いと感じていた。
80年代、「リゾート開発」が盛んだった頃から、これらの会社は「相手にするに値しない奴ら」という印象を強く持っていた。
なぜか?
開発を進めるアリバイ作りに手を貸す奴らだから、というのは当然の理由。
カネを貰って自然環境を売る汚い奴らという軽蔑。
だが、それ以外に彼らを嫌う、何かもっと大きな決定的な理由があるように感じていた。
今日、ふと気づいた。
彼らには感性がないのだ。
自然の記述は科学だからどこまでも科学的であるべきだ。今回の「辺野古アセス」にはその科学的態度が決定的に欠落しているから、これだけで致命的な欠陥と言える。
その問題は別として、その目的がアセスメントであろうと、研究であろうと、単なる観察であろうと、人間が自然と関わりを持った時、己の内なる感情と共鳴する何者かがそこに無ければならない。
もちろん、研究者や調査者は、そのような感情を抑制して、調査・観察した事実からデータを蓄積する作業を粛々と進めなければならないのだが、心の内に生じた感情は、それが感情であるが故に、打ち消すことはできない。
僕の知る多くの研究者は、皆この快い感情を共有しつつ、自然と関わる仕事を楽しみながら成果をあげている。また、苦しい作業にも耐えられるのだと思う。
しかるに、アセスメントを行う当事者には、このような情動が無いように思う。
自然を愛でる感情など、調査結果のデータとは無縁のもの、思われるかも知れない。
しかし、僕はそうは考えない。
人が自然を見つめる時、そこに展開する現象への驚きや感動、畏敬の念などの感情があるのと無いのとでは、観察や評価の結果に大きな違いが生じるのではないだろうか。
今まで、あまり考えたことが無かったのだが、辺野古の評価書を見て、ふと思いついた。
今朝はマイナス10℃以下に冷え込み、原野の枯れ草は霜の華で純白に装っていた。
ユラリと揺れて大きな月が昇ってきた。
今夜は満月。寒さも月もみな 美しい
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