2012年3月16日金曜日

寝台特急日本海から


 その特急の名を聞いたのは、小学校4年生か5年生の頃だったと思う。青森から横手へと向かう列車の中だった。小学生の時だから昭和30年代後半のことだろう。夏休みに、叔母に連れられ、横手に住んでいた大叔父の家に遊びに行く時のことだった。
 奥羽本線を走っている列車の車内アナウンスで「特急日本海」への接続の連続だったように思う。

その頃、僕の知っている特急の名前は「つばめ」「さくら」「ふじ」「はやぶさ」程度だった思う。北海道内の急行も「まりも」「すずらん」「アカシア」などだった。
 つまり、ほとんどが4音か3音の名前であり、「ニホンカイ」という5音の名前が耳に新しく、強烈に印象に残った。

 それから時は流れる。
 「日本海」は、その間も毎日、休むことなく走り続けていたわけだ。

 特急「日本海」に初めて乗ったのは、高校三年の冬、1969年、京都の大学を受けに行く時のことだ。
 函館に住んでいた僕は、東京へ行くために、深夜0時台に出港する青函連絡船の2便か12便に乗る機会が多かった。「日本海」に接続する12時15分出港の8便に乗り、昼間の海を渡ることが楽しみだった。

 その後、青函トンネルが完成し、連絡船は廃止された。「日本海」は函館始発となる。その頃、修学旅行の引率で「日本海」に乗る機会が増えて嬉しかった。
 夜の青森を出発し、一夜明けると北陸の海岸を走っている。車窓風景の不連続性は、この列車の最大の魅力かも知れない。
 さらに、「日本海」という名前の持つ不思議な響き。
それは、この列車の沿線が、日本史の中で「大陸と向かい合った地域」として、新しい文化の発信地であり続けたにもかかわらず、その後の政治や経済の中心が太平洋側に移ったことで、取り残されたような寂寥感を纏っているからだろうか。
 
 「日本海」という言葉の響きは、いつも「昔の賑わいを失った者」の寂寥感を伴って聞こえてくるように感じる。そこに、夜の、暗く波の荒い海岸風景が想像される。
 その日本海に沿って、列車は走る。

 いま、その最後の列車に、僕は乗っている。

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