2012年5月7日月曜日

都市で暮らす山菜愛好者に問う

昨日、伊達市大滝地区(旧胆振管内大滝村)から美笛峠、支笏湖畔を通り千歳市へ向かう道を走った。
 千歳川沿いのその道は、気持ちの良い雑木林の中を延びている。
 その林の始まりからおしまいまで、途切れることなく山菜採りの人々の車が駐められていた。山菜採りとおぼしき人々の車は支笏湖畔から始まっていたが、総数にして百台や二百台ではきかないだろう。  

厳しい冬から解放され、野山にでかけ、春の光を浴びつつ自然のご馳走を探す楽しさは、僕自身もしていることだから強く共感できる。皆、顔をほころばせてビニールの袋に山菜を詰め込んでいた。圧倒的に高齢者が多いようだ。

 しかし、正直なところ同時に少々心配にもなった。
 あれほど大勢の人々が山林に入り、特定の植物を採ったら、その地域でその種は、絶えてしまうのではないだろうか、ということだ。資源は有限なのである。

 あれほど大勢の人々が自然の資源を利用する場合、将来にわたっても持続的に利用可能であるような、科学的な管理が必要になるのではないだろうか。
山菜採りの人々は、周囲で大勢が山菜採りをしていると、どうしても競争心が強まるだろう。
(そして、世には「競争は良いこと」という偏った価値観が奨励されている風潮もある。) その結果、収穫量は、「必要とする量」ではなく、「隣人より少しでも多く」という基準で決められは、しないだろうか。
 かくして、いくつかの特定の種が、山野から姿を消すなら悲しい。
 実は、この現象は既に始まっているのかも知れない。というのは、道東のこの地方にさえ、札幌ナンバーの車が道ばたに駐められ、山菜を採っている人の姿をよく見かけるのだ。

 山菜採りに来ている人々は、健全な精神の持ち主が多いと思う。(思いたい。)自然を愛するからこそ、野山に分け入って来るのだろうから。そして、子どもや孫のいる世代が多いと思う。皆、子や孫を可愛がっている人々だと思う。その子どもや孫たちの時代やさらにその先の世代にも、今と同じように山菜を採り、味わう楽しみを残しておいてやろうというのが愛情なのではないだろうか。

 現在の採り方は異常だ。法的な規制は無い。無いからこそ自らの内なる自制心で「自分が食べる分量だけいただく」という気持ちになれないのだろうか。

 「そうは言うが、自分だけ自主規制しても自分が取り残した分を他人が採ってしまえば 同じことじゃないか」という反論が聞こえてきそうだ。
 さが、待て。待ってもらいたい。

 資源も環境も未来のことを考えず、現在使用可能なものはすべて使い尽くす、という構図は、どこかにないか?そう。原子力発電がまさにそれに当たる。

 原子力発電を推進し、いまだにそれにしがみつき、利権に群がっている人々。
 (作為的なデマかも知れないが)電力供給不足に陥るという脅しに乗せられて、「便利で快適な」生活を捨てられない人々と、取り憑かれたように自分が食べる量の何倍、何十倍もの山菜を採りまくる人々と、精神の構造はよく似ているのではないだろうか。

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