2012年6月11日月曜日

月曜日・・・動きだした大病院

今日から病院のすべてが動き出した感がある。 僕が入院しているのは、釧路市内でも最大級の病院で看護職だけでも300人もいるそうだ。ロビーなどは、ホテルのようだ。院内には、コンビニ風の店、お蕎麦屋さん、床屋さんもある。まるで一つの町のようだ。  DOUTORのコーヒーショップもある。(これは、たまらなく嬉しい) 検査や治療も本格的に始まった。  整形で鎖骨の治療を受けた。本当は、もっと早く処置してほしかったのだが、肋骨骨折による気胸の経過観察の方が優先されたのであろう。やむを得ない。とにかく鎖骨の骨折部分のズレによって感じる不快感は消えた。  ザックの背負い帯のように肩と背中を固定するバンドは鎖骨の治療には有効だろうと思われる。  なんだか世の中が総力を挙げて、僕の怪我の治療に取り組んでくれているように思えて、ありがたくはあるが、自分にそこまでの値打ちは無いのでは?という一種の恐怖も感じる。  大阪で通り魔事件を起こし、無関係の他者を刺殺したこの事件の犯人や同様の事件の加害者たちは、きっとこれと正反対の感情を抱いていたことだろう。  今回の事故の発生から今まで、実にたくさんの人々の善意によって、最善の待遇で過ごしている。  幸いなことにさほど重篤な状態でもない。もしこの場所が例えば戦場だったら、あるいは地震の被災地だったら、そこまで極端でなくても知床の岬地区や山岳地域だったら、これほどまでに充実した(僕には贅沢とさえ感じる)ケアを受けられるはずはない。  今の僕は、生命維持の最低限の処置よりもはるかに高度な、「贅沢な医療」を受けているのだ。世界中の人々が等しくこのような医療環境であればいいと願うのだが、現実は、そうではあるまい。  例えば、電力の問題ひとつ取り上げても、 「この優れた医療の環境を維持するためには、原発はどうしても必要だ」という脅しをかけられているわけだ。この脅し文句の真偽も重要だが、それ以前に世界全体を見渡し、世界中の人々が、優れた医療を享受しているか否かを考える必要があうだろう。 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とは、言うまでもなく宮澤賢治さんが「農民芸術概論要綱」に書いている言葉だ。 「原発が動かなければ、日本はメチャメチャになる」という脅し文句は、脅す側には、もちろんこの精神の片鱗も無いのは当然としても、脅される側も同様にこのことを忘れているという弱点を突いて発せられたものだと思う。  野蛮で卑劣な精神がそこに見える。

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