2012年7月10日火曜日

ヘソ曲がりと思われるかも知れないが

オリンピックが近づいていて騒がしい。
 出場の決まった選手の90パーセントくらいが、インタビューに同じ台詞で答えている。その言葉がずっと気になっている。
 いわく、
 「観る人々に感動を与えるようなプレイをしたいと思います」
最近では、何かの代表になった高校生までもが、このように答えることがある。
 それを聞く度にいつも心に引っかかるのだ。
 まず、「感動を与える」という言い方だ。
 どうしても、上の方から下に向かって「与える」「分け与える」という印象を強く感じる。
 「感動していただく」などというようには言われないのだろうか。
 スポーツの優れた人々は青少年への影響力も大きいと思う。言葉遣いも模範的であってほしいと願うが、そんなことを気にしていたら強くなって勝てないのかも知れないが。

 そして、実は、そもそも感動を「与えてもらう」ものなのだろうか、ということに疑問がある。
 血のにじむような努力をし、栄冠を克ち取る話は、感動的に違いない。だが、それは観る側が自分の価値観と感性で受け止めた結果として、感動が湧き上がってくるものではないか、と考えてしまうのだ。バスケットボールでパスを受け取るように「感動」をポンと投げ与えられるようなものではない、と思うのだけれど。

 そもそも物事は、人によって受け取り方はさまざまで、全国民が一斉に同じように感動するなどということは、怖いことではないか。
 どうか感動の押しつけは、止めてもらいたい。
 オリンピックも勝った負けたばかりに注目するのではなく、国を超えて優れたプレイやたまたま滲む人間味に対して、感応できれば、観戦も楽しくなってくると思うのだけれど。

0 件のコメント:

コメントを投稿