2012年7月13日金曜日

似而非科学について考えたこと

Facebookを通して、昨日の小ブログ「アウレリア ラプソディ」にKさんがご意見をお寄せ下さった。
 一部引用させて頂く。
 「ゴミも処分できない原子力技術は科学とは言えませんよネ!」

 もちろん、僕も同意見だが、この言葉を噛みしめていて気づいた。
 今こそ「科学とは何か」を問い直さなければならないのではないか。

 僕は、人生の大部分を理科教師として過ごしてきた。それ以前の学生時代から科学的なものの見方を心がけてきたし、自分の中から非合理主義てきなものを排除するように努めている。
 だから真理を見つけることを曇らせる似而非科学や疑似科学に対しては、厳しい見方を捨てていない。それはそれで正しい生き方だと自分では信じている。

しかし、Kさんの意見で、「作る」ことには熱心で、その後始末の方法には無頓着な「技術開発」は科学とは言えないということに今さらながら気づいた。
そして、身の回りには、そんな事例がいかに多いかということにも同時に気が付いた。 例えば、人工衛星の技術。
 作って打ち上げるまでは、皆が注目するし作る側も熱心だが、寿命が来たらどうするのだろう?今や地球の周囲はゴミだらけだと言うではないか。
 先日の新聞記事で、南鳥島の海面下5000メートルの海底から希少金属を多量に含む泥が見つかり、その埋蔵量は今の日本の消費量で250年分くらいあるということだった。しかし、この広大な海底の泥を採掘しまくったら海底で暮らす生物、深海を流れる海流などにどんな影響を与えるかについて、誰も気にしていないかのようだった。
 再生可能なエネルギーとして注目されている発電用大型風車を建てると鳥の衝突が後を絶たず、東北北海道において、この十数年間で16件のオジロワシやオオワシが命を落としている。
 今ではほとんど廃坑になった九州や北海道の炭鉱も壮大な自然破壊と引き替えに行われてきた産業である。
 農業技術でも同じ例はたくさんある。
 果菜類を一年中安い値段で消費者に提供するために、生物農薬のセイヨウオオマルハナバチを利用してナスやトマトのハウス栽培を行う技術を開発したのは良いが、そのハチが環境中に逃げ出して、高山植物の送粉系(昔から確立している昆虫と植物の受粉システム)を撹乱、希少植物の絶滅が心配されるようになっている。
 新しい技術を開発することは進歩につながる。悪いことではない。
 だが、その弊害や影響、廃棄物の処理なども完璧に確立してから実用化すべきはないのか。それでこそ「完成された技術」と言えるのではないか。

 基礎科学が軽視され、実生活への応用が強く求められる傾向が強まったと思う。
 科学は「真理の探究」から「札束の探求」へと変節しているかのようだ。

 原発問題は、他方では、科学と人間の関係について鋭く見直しを迫っている問題でもある。
 国際学生連盟の歌にある一節
 「平和 望む 人の幸に 捧げよう わが科学」
 この一節が、たまらなく好きだ。

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