2012年7月20日金曜日

内部被曝のことを考えていた

昨日に続き、オホーツク海の高気圧が吐く息で、春先のような寒さになった。今朝の気温は13℃だった。

 原発事故について、今後のエネルギーのあり方をどうするか、ということに関心が集まり、盛んに論議されている。再稼働反対や脱原発を訴えるデモや集会も盛んだ。
 それは、大事なことに違いない。

 その一方、見落とされがちだが、内部被曝(低線量被曝)がどれほどの危険性をはらむか、という議論も行われている。
 この問題は、事故直後、枝野官房長官(当時)が繰り返し強調していた通り、「直ちに影響のでる」問題ではないので、論じること自体に、ある種の難しさを伴っているようだ。
 人の身体の中は、たくさんの物質が多様な化学反応を連鎖させながら、一時も止まることなく動き続けている壮大な化学反応系だ。そこは、海の中や森の中と同じような物質が絶えず流れている生態系と同じようなものだと考えて良いだろう。
 気象現象や地殻の運動と同じような複雑系である。
そのような中で放射性物質がどのように振る舞い、どんな影響を与えるか、未知の部分も大きい。未知の部分を探るために、過去の経験を統計的に処理した疫学的な手法を用いるのが常だが、放射線の影響について、人類が蓄積している経験はあまりに少ない。
 だが、過去の多くの公害による疾病では、常にこのような方法による予測を超えて、様々な障害や疾病が顕れているという。
 そのため、低線量被曝への評価は、十分に悲観的に行うべきではないだろうか。

 こう考えてくると、現在、日本の政府や学界の大部分は、福島で起きている事態について、あまりにも楽観的過ぎるように思う。
 あの原発事故を契機に、被曝医療に携わる専門家を大量に養成したり、放射性物質を分析する施設を郵便局くらいの密度で配置したり、とにかく日本の国の有りようを根本から変えて、「原発事故を起こしたけれど、国民の命と健康は、これ以上危険に曝さない」という意志が感じられるようにしなければならないだろう。
 上辺だけ「絆」を叫んでも「食べて応援」と言いながら自分や家族には、安全なものを選り分けて食べさせていたりするような態度では、国は決して良くならないだろう。
 まして、再稼働などもってのほかである。

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