2012年8月12日日曜日

霧のかなたの流星群

今日は、いつもはあまり利用しない、旭川→層雲峡→北見→美幌峠→別海というコースで帰って来た。
 別に用事があったからではなく、あくまでも気分がそういう選択をさせたのだが。
 美幌峠は非常に濃い霧に覆われており、速度を40~50km/hに制限して走った。
 根釧原野に入っても、霧はすっきりと晴れることなく、空を見上げても星は見えない。 今、ペルセウス座流星群の時期だというのに、どうにも焦れったい。

 流れ星は、どうして人を惹きつけるのだろう。
 天空に張り付けられたようにその位置を変えない星たちの間をツーッと音もなく流れて消える様子がダイナミックだし、「静」であるはずの星が突然「動」に変じるようで、その対比が面白いからだろうか。さらに、普段はなかなか見る機会が少ないので、珍しさも加わって魅力的に感じるのだろうか。
 そのせいか、流れ星に関する言い伝えは多い。
願い事を唱えれば叶うというのは、誰でも知っている。
 源流は、神が下界の様子を眺めるために時々、天界の扉を開ける。その時に扉から漏れた光が流れ星だというキリスト教の言い伝えから、流れ星が流れている間に願い事を唱えれば神に声が届いて、願い事がかなうと言われるようになった、という話を何かで読んだことがある。
 また、人の死の予兆という見方も広くあるようで、一晩に三度流れ星を見ると身内に不幸が訪れるという言い伝えもあるらしい。人の死と結びつける考えは、世界中のあちこちにあるようだ。
 どこの国のどんな民族でも、似たような感想を持つところが面白い。

 詩人の草野心平さんが、既に亡くなった文学関係の人々について書いた文を一冊の本にまとめ、「私の中の流星群-死者への言葉」という本を出した。1975年 
宮澤賢治、八木重吉、山村暮鳥、高村光太郎、北原白秋、中原中也など40人以上の文学者との間で交わされた書簡や交流の思い出などが書かれている。
 また、草野と同様詩人だった兄の天平さんや弟の民平さんの思い出も書かれている。
 この本の出版後1988年には、心平さん自身も亡くなった。
 自分という意識の持続している間に出会って交流し、自分より先に生を全うした人々を「流星群」と呼んだその感性は、さすがだなあと思った。
 そして、草野さん自身も多くの人の心に明るく輝く流れ星としての光跡を刻んだというわけだ。

 明るく輝くか、暗くひっそり流れるかの別はあっても、人はみな、互いの心のスクリーンに「流れ星」として映るのだろう。
 自分のスクリーンができるだけたくさんの流れ星が通り過ぎる一生であれば良いと願う。

 草野心平さんは福島県の出身だ。旧上小川村、現在のいわき市小川町で生まれた。
 いわき市内は、生家が保存・公開されていて、草野心平記念文学館もある。
 福島第一原発の事故で、いわき市小川町はかなりの被害を受けている。
 草野心平さんという偉大な詩人も少なからずその被害を受けているだろう。
 原子力発電所の事故によって、文学までもが影響を受けているとすれば、許されることではない。

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