2012年8月13日月曜日

「パンとサーカス」=「電気とオリンピック」

 オリンピックが終わった。
 正直なところホッとしている。
 新聞も、TVもオリンピックのニュース一色に塗りつぶされた観があり、その陰に隠れて、金持ちや大企業を優遇し社会保障を切り捨てる、消費税の引き上げが一段と進んだ。 野田内閣は、迷走しちぐはぐなことをしているのだが、子どもにでもわかるはずのことにまだ多くの人が気づいていない。
 オリンピック惚けだ。
たとえば、前総理大臣の時に民主党は「脱原発依存」を決めた。
 そう決めたはずの民主党政府が、いまさら、2030年代のエネルギー政策をどうするかパブリックコメントを募集し、それを精査するというのは、どういうつもりだろう?
 あわよくば「脱・脱原発依存」を目指し始めたということではないだろうか。
 8月6日の「原発ゼロになった場合のエネルギー需給状況の精査」を首相が指示したというのも同様だ。
一部原発推進論者の中から「エネルギー政策を今決めるべきでない」という発言もある。
「今は福島の事故直後で国民が感情的になっているから、冷静さを取り戻してから決めるのが良かろう」という趣旨の発言だ。
 「冷静さを取り戻して」というのは、つまるところ「反対論の熱が冷めてから」という意味に他ならず、なんとしても原発を推進しようという執念から出た意見以外の何物でもない。
 「ニッポン!ニッポン!」と絶叫している間に、この種の悪意の包囲網が着実に用意されていくのだ。

 スポーツは、悪いものとは思わない。重要な文化の一つだ。
 だが、極論すれば勝つか負けるかというのは、最終的にはその競技に向けて努力してきた当事者の問題だということになる。
 観る側に贔屓の選手やチームがあっても良いが、それはあくまでも観る側の個人的な判断と選択によるもので、周りか強制されるものではない。日本人だから誰もが日本を応援するとは限らないだろう。
 マスメディアが社会の公器として、日本への応援を強調するのは、自重すべきだ。
 勝敗に固執し、スポーツへの興味をその一点に矮小化することで、娯楽性を増幅し、市民を政治的盲目の状態に陥れ、その陰で悪意に満ちた策動をする、というのはローマ帝国の時代から行われていた世論操作の手法だ。
 ローマ時代の詩人ユウェナリスは、古代ローマ帝国の世相を「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを詩篇の中で揶揄した。
これは、今の日本にも当てはまるのではないか。
 現代風に言い直せば「電気とオリンピック」かも知れない。

 これだけ「進歩」した社会の住民たる現代人は、もう少し頭を冷やすことはできないのだろうか。

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