2012年8月26日日曜日

赤城山用水にコメへのこだわりと執念を感じた

 昨日に続いて群馬県内の見学をした。  今日は、赤城大沼用水を中心に、赤城山の山麓から外輪山を越えて赤城大沼湖畔まで行き、大沼から少し離れた所にある寄生火山の爆裂火口跡にできた小沼を見て山麓に戻った。  赤城大沼用水というのは、赤城山山麓には、一面に青々とした水田が広がっている。この地域の稲作は江戸時代から続けられているという。だが、赤城山は第四期の火山であるから、この山に降った雨は地下に潜り伏流水となってしまうから山麓での稲作は一帯は常に水不足に悩まされていたらしい。  集落同士で水の奪い合いが絶えず、しばしば激しい争いもおきていたという。  そこで江戸時代末期から明治時代にかけて何人かの志ある人々が赤城山の山頂にある赤城大沼の水を麓まで引くことを考えた。  しかし、大沼を囲む外輪山を越えて水を外側に導くのは大変なことで、最初は不可能と言われたらしい。  しかし、人々の熱意と技術の発達により、トンネルを掘ったり用水路の底をコンクリートで固めたりしてこの用水路は完成した。 この用水は現在も使われている。  今日、見学したのは、用水から水を分岐させる柏木堰と、複数の支流に公平に等量の水が分かれるように工夫された円筒分水槽という施設だ。  いずれからも水を一滴でも多く確保したいという農民の強い執念が伝わってきた。同行していたS先生が「まさに我田引水だね」と言っておられた。  そのS先生は山梨県から来られた方である。  赤城山のような火山ではないが、甲府盆地も赤城山麓と同じように水はけの良すぎる扇状地で、水田を作るのは困難な土地だ。  赤城山と違っているのは、甲府では早くから稲作をあきらめ、果樹栽培に力を入れているところだ。  群馬県、赤城山麓では、なぜ最後まで稲作にこだわったのだろう。稲作への非常に強いこだわりは、なぜ生じたのか。  答えはわからない。  率直に言って、もう少し柔軟であってもよかったのではないか、と思った。   今、赤城大沼は、周囲の山から流れ込んだ放射性物質でワカサギが汚染され食不適の状態が続いている。  その水を用水として引き、稲作に使っていることにも疑問を感じた。  そして、都合の悪いことから目をそらし、無かったことにして皆が口をつぐんで黙認している、という状態は、水争いを繰り広げて自分の田に引く水だけは確保しようとしたココロの構造と非常によく類似しているように思える。  コメは、魅力ある優れた農産物であることは理解できるが、あまりにもそれにこだわり過ぎる姿勢が、様々の問題を生み出す原因になっているのではないだろうか。

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