2012年8月6日月曜日

封印すべき技術があってもいいのじゃないかな

広島への原爆投下の日。
 1989年のこの日、旧ソ連時代のシベリアにいた。
 当時の「プラウダ」には、広島でひたすら祈りを捧げるおばあさんの写真とともに「ヒロシマを繰り返してはならない」という意味の記事が掲載されていた。
 多分に政治的な意図があって載せられた記事かも知れないが、その時、一緒にいたロシア人の何人かに、「ヒロシマは本当に気の毒だった」という言葉をかけられたのを覚えている。

 今日、読んだツイッターの記事で、台湾のホテルにいた人が、8時15分に朝食を摂っていたレストランから自室に戻って黙祷しようとしたら、ホテルの従業員に呼び止められ、「ここで黙祷して下さい」と言われた。投下時刻になるとレストランに居合わせた客全員に放送で呼びかけてヒロシマのために黙祷した、と書いていた。

 これらの人々の真心に比べて、野田総理大臣のスピーチの空しさは、どうだろう。
 言葉と心のこれほどまでに見事な乖離(かいり)は、他に例を見ないような気がした。

 「乖離」と言えば、人間は自然からどこまで乖離しようというのだろう。
 今日の広島市の松井市長も平和宣言で「『核と人類は共存できない』という訴えのほか様々な声を反映した国民的議論が進められています。日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください。」として、人類と核エネルギーが共存できないという考えを強く滲ませている。

 ヒトは、地球上に誕生して以来、道具をつくり、火を使い、化学エネルギーを自在に操る術を身につけた。
 次に電気エネルギーを様々に使いこなし、ついに核エネルギーにまで手を伸ばした。
 核エネルギーが絶対的にタブーだとは思わないが、これは、使い方や管理のしかたを少し間違えば、取り返しのつかない禍をもたらす。
 この技術の発達に人類の哲学やモラルは、まだ追いついていないことは自明だろう。

 同様に危険な技術は、他にもある。
 たとえば遺伝子操作だ。DNAを解読し操作する術を身につけたことで、人類は自然界の生物を思いのままに操ることできるかのように思い上がった。
 この影響が、今後どのような形で現れるか、十分に吟味されないままで、主に農業の分野でこの技術が濫用されている。
 その結果、生産性を上げ、収量を増やし、コストを削減するという工業生産と同じ原理が農業に持ち込まれている。
 だが、農業とは、ヒトの食べ物を作る営みではなかったろうか。そして食べ物は、それ自体がヒトの身体になる、きわめて重要な物質ではないだろうか。
 食べる物について、真剣に考えない態度は、自分たちの命を真剣に考えないことである。

 賢しげに「命の大切さを教え・・・」などと言葉に出す人は、自分の食べる物がどのように生産され、どのように加工または調理されて、食卓にのぼるか、真剣に考えているのだろうか。
 このことは、もう少し考えてみなければならない。

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