2012年9月21日金曜日

旅の記 その10 メンデルとの邂逅

9月20日 ブロツワフ(ポーランド)~ブルノ(チェコ)  ブロツワフを朝、5時55分に出て、チェコの山間のウスティナット・オルシチという小さな駅で乗り換えた。そこはもうチェコ領だった。  ウィーンからクラコフに行く時も鉄道で国境を越えたが、その時は夜行列車だった。  昼間の国境越えは初めてだった。もっとも「国境越え」と言ってもチェコとポーランドの国境には、線路脇に標識が一本立っているだけだ。列車は減速すらせずにあっさり通過した。  国境を通過したことは、車掌が代わったこと、直前の駅で警察官の姿が少し目立っていたことなどでわかった。  EU内のことだからもちろんパスポートの検査などは無い。  昼前に目的地ブルノに着いた。  駅頭に立って街を見回す。ごく普通の東ヨーロッパの地方都市の一つという感じである。  宿泊予定のホテルに荷物を預け、ポーランド通貨のズローチをチェコのクローネに変えて準備完了。トラムに乗ってメンデル博物館を目指した。  メンデルは、この町の修道院で一生の大半を過ごし、エンドウを使って遺伝の実験を行った。DNAの存在はおろか染色体の存在さえ知られていない時期に、実験結果から推し量って「遺伝子」の存在を予言した。  しかし、この町の当時の生物学会は、メンデルの論文に理解を示せず彼が死ぬまで研究の成果は世に出ることがなかったことはよく知られている事実である。  彼の過ごした修道院の一部が博物館となり、メンデルに関する資料が展示されている。 メンデルにとって遺伝の研究は、彼の自然に対する科学的な興味の一部であったようだ。 エンドウの交配実験の成果が認められなかったことが、彼にとって大きな痛手だったのか、それともさほどでもなかったのか、知る術はない。だが、自然科学の研究者として自信をもって発表した論文が、学会に受け入れられなかったことで、おそらく悔しい思いは抱いたに違いない。  だが、メンデルという人は、非常に忍耐強い緻密な観察者、実験者だったと思う。そのため、気象観測、ミツバチの飼育、温室の設計などにその才能をよく発揮している。だから、彼は彼で、その生涯の仕事に満足しているのではないかとも思う。  死後14年経って、ド・フリースら3人の生物学者がそれぞれ独立にメンデルの法則の正しさを評価して発表した。今では遺伝学の基本原則として世界中の生物学の教科書に載っている。おそらくこれからも消えることはないだろう。 個人的なことを書かせてもらえば、中学2年の時、初めてメンデルの法則を学んだ。幼稚な頭で必死に理解しようと努めた。その甲斐あって遺伝に関してだけは、試験で間違えたことがなかった。そのこと僕を生物学に結びつける大きなきっかけとなった。  48年後の今、彼の暮らした土地に立つことが出来た。  この町の空気を吸い、教会の鐘の音を聞くだけで、震えるような感動を覚えている。

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