2012年9月5日水曜日

ヒト慣れしたクマ VS. クマ慣れしたヒト

 昨日、わが職場の係長がクマと遭遇したことを書いた。
 実は、僕が外出先から帰ったちょうどその時は、彼がクマと遭遇した直後だったらしい。その時の彼は、裏口の扉を閉め、ドアノブを固く握りしめていた。
 「この扉は、外からは絶対に開けさせない」と言わんばかりだった。
 いくらクマでも、自分でドアを開けて入ってくるわけがない。冷静に考えれば当然のことだが、それだけ余裕を失っていたということだろう。
 それほど慌てたことを笑えるだろうか?いや、とんでもない。
 野生のヒグマとさえぎる物体がまるで無い状況で5メートル以内で対峙した経験のある人は、どのくらいいるだろう?
 おそらく北海道内に限ってもほとんど居ないはずだ。限りなくゼロに近いに違いない。ヒグマ生息密度の異常に高い知床半島に於いてさえ、そのような遭遇例は稀だと言って良い。
 野生のヒグマと相対したとき、遭遇の状況にもよるが慌てたり恐怖におののいたりするのはごく当たり前の反応だと思う。中には失禁してしまう人さえいると聞く。

 今年のヒグマ目撃例が異常に多いのは、知床のヒグマの間で「第二世代」のヒト慣れ個体が現れ始めたからではないかと指摘されている。
 ヒトを気にしない個体が増加していることは、以前から言われていた。
 しかし、今年のような「同時多発的な」目撃例は、ヒト慣れの進んだ親から生まれた子どもたちが、独立し始めたことで、よりいっそう顕著になってきたのではないかというのである。
 確かに思い当たるフシがある。

 そこで、知床で暮らすわれわれの側も、今までのヒグマ対策だけでは対応しきれなくなる虞がある。
 これから目指すべき方向は、「クマ慣れした人間の育成」ではないだろうか。
 ここで言う「クマ慣れ」とは、万が一遭遇した時のクマの状態を正しく判断でき、それに基づいて冷静に安全に行動できる、ということだ。そのためにはヒグマに関してより多くの知識を持ち、その習性、行動、恐ろしさを知悉していなければならない。

 「ヒグマ」と言うところを「自然」と置き換えてみよう。
 われわれは、文明の恩恵に浴する過程で、自然界から限りなく離れてしまっているのではないだろうか。
 自然界のどんな現象でも、それを恐れるに足るだけのすさまじいパワーを秘めている。それらひとつひとつを理解し、できるだけ危険を回避することに努めてきたところに人間の叡智がある。
 今こそ、この原点への回帰を考える良い機会かも知れない。

 自然の力は恐ろしいものだが、人間が作り出した放射能の方が、もっとずっと恐ろしいのではないかと思うのだが。

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