2012年10月12日金曜日

反「反科学」論

 「△は、どうしよう?」  「野外観察」の授業で、僕は問題をこう投げかけた。  先日、海岸で観察してきた漂着物の分析をしていた。  海岸で集めたゴミのうち、漂着物と非漂着物を分け、漂着物の占める割合を推定するのが今日の目標でだ。ゴミのリストを作り、漂着物には○、非漂着物には×をつけて区別した。非漂着物とは、つまりは誰かが海岸に捨てたゴミのことだ。  ところが圧倒的に多くのゴミがどちらとも言い難い△になってしまった。  たとえばペットボトル。  ロシア製のものや韓国製のものは、漂着したと推定できるが、日本製のものであれば、漂着したものもあるし、誰かが海岸に捨てたと考えることもできる。  △が少量であれば、一つの項目としてそのまま記載しても良いし、統計上無視することもできる。しかし、全体の量の半分以上を△が占めているのだ。 そこで「△はどうする?」と問うたのだ。  二年生7名が受講している。彼らは、真面目だが、口の重く、なかなか自分の意見を発表してくれない。そこでまず、この問題について仲間同士で話し合って頭と心のウォーミングアップをさせようと思ったのだ。  期待通り、話し合いは徐々に盛り上がりを見せた。  最初に、 ①「ゴミを集めたときに、現場でよく観察、話し合って、できるだけ○か×に分類する。」 という案が出された。もちろん正論である。皆が賛成した。  次に ②「△は、独立して扱うべきだ」という意見と ③「△は、非漂着物に入れてしまおう」という意見が出た。 ②と③は対立した意見だから話し合いを深める必要がある。                         (狙い通りだゼ!) ②の意見は、事実をそのまま統計に反映させるのだから、その意図はわかる。  どうして③のような意見が出るのか興味を感じたので提案者に質問した。すると、  「△を×と一緒にすることで、非漂着物の数値が上がり、町民が自分たちの海岸を汚し ているという事実が強調されて、海岸美化の意識を高める効果が上がると思うのです」 提案者のMくんが堂々と述べてくれた。  内心、僕は舌を巻いた。高校生にもなると、こういう発想もできるのだ。  つまり、統計の目的まで先読みして、その目的に沿った形で統計をまとめようというわけだ。彼の説明には説得力があった。7人の生徒のうち6人が彼の案を支持した。②の案を提案したTくんも支持にまわった。  ただ一人、Uさんは疑問を投げかけた。  「統計は、できるだけ事実に近い方がいいのではないか」と。 (たとえ一人きりでも自分の意見を曲げない彼女の態度には感心した。日頃、みんな無口だけど、いい生徒達じゃないか、と思った。)  これは生徒の提案だから、力で退けるわけにはいかない。  結局、この問題は、次の授業時間まで持ち越して、議論を深めることにした。つまり結論は先送りとなった。  「野外観察」という科目は羅臼高校の自然環境科目群の一つの学校設置科目であり、学習指導要領にその内容が決められているものではない。 「科学的な自然観を身につけるために、野外において実践的な自然観察を体験する」というような目的で設置されている。だから歴とした「理科系」の授業だ。 だから統計も、できるだけ観察事実に基づいて、事実が反映されるように行わせたい、と僕は、個人的には願っている。  だが、一方で生徒たちの考えも尊重せねばならない。この授業の行方も気がかりなのだが、同時に僕は別のことを思っていた。  いま、少なくとも日本において「科学」が力を失っているのではないだろうか。  十年か二十年前からそのような傾向が見られると感じていたが、昨年の福島第一原発の事故によって、その風潮が決定的に広がって、科学への不信から反感にまで達しているように思う。  反「感」であるからそれは科学的根拠など無いのが当然である。  様々な分野で科学的なものを否定する考え方、行動、解釈が広がっている。  奇妙なのは、その種の反科学情報や反科学的感情が、科学技術の最先端の成果が投入されているインターネットの世界を伝わっているという事実だ。  これらの傾向は、感情的な動きであろうからいずれは沈静化していくと思う。沈静化させるためには、「科学は、事実だけに基づくものである」ということを徹底させるしかないだろう。  ただし、「事実」を見誤らせるために、統計が意図的に操作されることはありうるし、歴史の重要な局面では、その手段がよく用いられた事実を知っておく必要がある。  来週の「野外観察」  口の重い生徒達が、この問題にどう結論を出すか、楽しみでもある。

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