2012年10月3日水曜日

スロバキアを去る日  ブラチスラヴァの小公園で

 スロバキアのブラチスラヴァでは、ドナウ川に浮かぶ船を改造したホテルに泊まった。boat の hotel だからbotelと表示してあり、最初、スロバキア語ではホテルのことを「botel」と言うと思った。何しろcoffeeがkova なのだから。  ホテルの前の川岸から道路まで2~30メートルくらい離れていて、その間が公園のようになっている。ジョギングをする人、イヌを散歩させる人、ベンチで語り合うカップルなどブラチスラヴァの人々が思い思いに過ごしていた。  帰る日、船着き場まで歩いていると、その公園に銅像があることに気づいた。ヨーロッパの街には、いろいろな銅像がたくさんあるから、細書はあまり気に止めなかった。しかし、よく見ると、その銅像は、片眼をハンカチのような布で覆い、右腕に銃を持ち、左手でぐったりとした別の男性を抱きかかえて、精悍な表情で遠くを見つめている。
そして、その台座には、 「KTO PADNE V BOJI ZA SLOBODU, NEZOMIERA」 と書かれており、その下には 「HRDINSKYM BULHARSKYM PARTIZANOM   KTORI POLOZILI ZIVOT ZA   NASU SLOBODU.」と書かれたプレートが貼り付けられていた。
 スロヴァキア語は、まったくわからず、周りにそれを理解できる人もいない。インターネットの翻訳で、手探りに調べてみた。  台座の文は、「自由のための戦いで死んだ者は、死ぬことがない」というような意味らしい。  そして、プレートには、 「私たちの自由に命を捧げたブルガリアの英雄的なパルチザンのために」というような意味になるのだろうか。  (もし、スロバキア語をご存じの方がこれをお読みになったら、間違いをご指摘下さい。   そうしてくだされば、とても嬉しく存じます。)  第二次世界大戦の時、ナチスドイツに占領され後も抵抗を続けたパルチザンは、チェコやボスニア、スロヴェニアなどで粘り強く活動して、ドイツ軍を悩ましたことはよく知られているが、この地でも激しい活動が行われていたことが実感される。  銅像の前には花束が捧げられており、周りはきれいに清掃されている。もう忘れられかけている遠い日の出来事であろうが、その後もソ連との軋轢、チェコからの分離と、独立までに紆余曲折を経なければならなかったスロバキアの人々の思いが伝わってくるように感じた。  日本はどうか?  地理的な条件から、国が独立していることの意味とありがたさをどれだけの人が理解しているだろう?  形ばかり「独立国」とされていても、実態はアメリカの思うままに基地を提供し、米軍人に対する裁判権すらなく、率先してお金まで負担している。それで「独立国です」と言えるのか?  そして、そのツケは全部国民に回している政府が70年近くも君臨しているというのに国民は独立しているような共同幻想を抱いている。  ブラチスラヴァを去る間際、この銅像は無言でそんなことを語りかけてくるようだった。 「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」  寺山修司の歌が心に浮かんだ。

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