2013年1月14日月曜日

成人の日・・・新成人は成人たり得るか。そして日本社会は・・・・。

 成人の日だ。成人式の話題があふれた。  今朝、ラジオを聴いていたら「成人の日の思い出」というテーマで様々なエピソードが聴取から寄せられていた。  その中に「成人式には出席しなかった」と書いていた人が意外に多かった。そして、その理由は晴れ着やスーツを準備できなかったからというものが目立った。中には、成人代表で決意の言葉を読むことになっていたのだが、スーツが無くて結局欠席してしまった、というものさえあった。  これを聞いているうちに、僕は無性に悲しくなってきた。一人前の人間に成長したことを祝福されるべき「成人の日」に、なぜ背負う必要のない悲しみを背負わなければならないのか。  晴れ着姿で街を歩き回る「新成人」たち。そのうちのどれだけの若者が自分のお金でその装いをしているのだろう。  外見や形ではなく、その中身で自分を飾ることはできないのだろうか。そして、それを是とする社会になれないのだろうか。日本の「豊かさ」とは、こんな皮相で表すことしかできないのだろうか。  成人式に晴れ着を着、就職試験ではリクルートスーツを着る。異常な横並びの現象だ。「皆と同じなら安心する」というを価値観がよく育っている。その原点は高校生の頃、制服を強要されてきた体験かも知れない。  「一生に一度のことだから」と反論されるかも知れない。我が子を着飾らせたいという親のエゴがそうさせているかも知れない。  だが待て。  僕たちにとって、毎日毎日、一瞬一瞬がすべて「一生に一度のこと」だ。そして、親の庇護から離れ自立への決意を固めるのが成人の日なかったか。  自治体の行う成人式も出席案内に断り書きを入れるべきだ。「普段着で来て下さい」と。

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