2013年2月26日火曜日

死を意識して生命と対峙せよ

 高齢になってから病院に入るというのは、一般的に老いを加速することだと知った。無理からぬ面はある。  たった一週間だけだったが昨年、生まれて初めて体験した入院生活は、今思い返してみても快適だった。上げ膳据え膳であらゆる身体のケアをしてくれる。爪切りから耳掃除までしてくれ、身体を動かせなかった時は全身の清拭もしてくれた。僕はただ、温和しく本でも読んでいればよかった。  僕が入院した釧路労災病院がとりわけ優れた病院だったせいもあるだろうが、傷ついた部位がひどく痛むことさえガマンすれば快適な過ぎる生活で、「まるで王侯貴族のようだ」と来る人ごとに語っていた。  高齢者が入院した時、それまで自力で行っていた種々の日常動作の大半を他人に頼るようになれば、自分の身の始末は自分でつけるという意欲が低下することは容易に考えられる。その結果、急速に衰えることも多いのだろう。  高齢者の場合、食事でも着替えでも自分のペースでゆっくりと行う人が多い。介護する人にとってはそれを待つまでの時間が惜しくてしかたないのだろう。だから「できることは自分でさせた方が良い」とわかっていても、つい介護者が手出ししてしまうこともありそうだ。問題はここにあるようだ。  病院で高齢者の介護や看護にあたる人々は、死をどれくらい意識しているだろう。客観的に見て高齢で病気の人は、もっとも身近なところで死と向き合っていると言えるだろう。もし、このことを真剣に考えているなら、高齢者の医療現場はもう少しましになっているのではないだろうか。  少なくとも食事や排泄の介助を「作業」のように見なすことは止められると思うのだが。  父は2か月近い入院生活で、点滴の針が血管から抜け輸液が筋肉中に漏れだし、腕をゴム手袋のように腫らせたことが10回以上あった。専門的なことはわからないが、92歳という年齢からみても血管から留置針が抜けやすい状態になっているのかも知れない。  それに対して病院では、最初から最後まで24ゲージの留置針を使っていた。もし、これをもう一段細い26ゲージに変えていたらどうだったろう、などと細々としたことが気になってしかたがない。  いずれにしても、医療の現場ではもう少し死を意識して生命と向き合って欲しいと希望するのである。

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