2013年5月31日金曜日

今日という一日

 今日の5・6校時は、羅臼高校2学年の「野外観察」で、久々の2時間連続の授業だった。昨日の雨が嘘のように天気が良くなったので、羅臼町の「裏山」とも言える「望郷の森」まで登って来た。  片道2キロ足らずの山道だが「立仁臼川(たちにうすがわ)」という沢に沿って登る。終着点の標高は300メートルほどだろうか。美しいダケカンバの林がある。知床山系でそろそろダケカンバ帯が始まる高さでもある。  久しぶりに軽く汗を流して爽快な気分で下りてきた。  事務所に戻ってからは、明日の釧路教育大生向けのプレゼンの準備にかかった。  彼らは羅臼町のクマ学習についての話を聴きに来てくれる。大学生を相手に話すのには慣れていないので、やはり緊張するものだ。  しかし、将来教員になっていく学生たちだろうから、「ビデオを見せて自然体験に代える」などという発想を持たずに、学ぶことの本質を的確に理解した教師になってくれることを希望する。 本ブログは,明日から 次のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月30日木曜日

名犬 矢間(ヤマ)の物語

 来月の出張の時、一泊は雲仙温泉にしようかと考えている。いま、雲仙の宿を探しているのだが、湯元ホテルという宿のホームページを見ていた。この宿は300年以上の歴史があるとか。その長い歴史の中では当然いろいろな出来事があったろう。HPにあったそれらのエピソードの中で、非常に印象的なものが一つあった。  雲仙湯元の犬、矢間(ヤマ)は、ご主人の加藤小左衛門正時から「矢間。お使いに行ってきておくれ」と言われると、手紙を風呂敷に包んで、首に巻きつけてもらい挨拶代わりに「ワン」と一声吠えて、喜んで三里(およそ十二キロ)の山道を越えて矢櫃にある八木家まで元気に走っていきます  八木家について「ワン」と吠えると「おー、よしよし。矢間、ご苦労だったな」と当主が手紙を受け取ります。  矢間は好きなご馳走を貰い、しばらく八木家の気持ちのよい屋敷の中でゆっくりと昼寝をして、返事の手紙を風呂敷に包んでもらい首に結わえてもらって雲仙にかえるのでした。  急用があれば、雪の日でも雨の日でも矢櫃まで喜んでお使いに行くのでした。ある暑い日。雲仙から矢間は、いつものように手紙を首に結わえてもらって矢櫃まで下って行きました。  もうすぐ八木家に着く山路で、八木家の五つになる上枝(ほずえ)という娘が、真っ蒼になってじっと立っていました。その足元に真っ黒いカラス蛇が、いまにも飛びかからんばかりに鎌首を上げて上枝を睨んでいました。  多分、上枝の毬がカラス蛇の寝ていた草むらの中に落ちたのでしょう。  とたんに矢間は、上枝を助けようと「ワンワン」吠えながらカラス蛇にかかって行きました。びっくりしたカラス蛇は、草むらの中に逃げて行きました。  「矢間!」上枝は泣きながら矢間にしがみつきました。八木家の当主は、上枝が矢間に助けられたことを感謝して手紙に書き添えました。  あるどんよりと曇った日。湯元の小左衛門は、法要の打ち合わせのため手紙を書いて浅黄色の風呂敷に包んで「矢間、ご苦労だが八木家に行ってきておくれ」と、矢間の首に巻きつけようとしましたが、すぐ喜んでお使いをする矢間が、どうしたことかこの日は、小左衛門正時の手をなめて、なかなか風呂敷を結ばせません。  そして、甘えるようにご主人の目をじっと見つめていました。でも、最後には元気に一声吠えると走っていきました。  ところが、矢間は矢櫃の帰り、札の原(昔、湯元掟という木札が立っていたところ)というところで倒れておりました。首には風呂敷はありませんでした。  きっと泥棒が、風呂敷に何か入っていると思ったのでしょう。矢間のお腹と頭にひどく叩かれたあとがありました。矢間は泥棒に風呂敷を取られまいと戦ったのですが、敵わなかったのです。  もうすぐ湯元だったのに、矢間はどんなに悲しかったことでしょう。日ごろ可愛がってもらっているご主人に会えずにここに倒れてしまったことを。  札の原の側に住んでいる人が、矢間を見つけましたが、もう死んでいました。  知らせを聞いて小左衛門正時をはじめ湯元の人々も駆けつけました。皆、口々に「矢間。矢間」と言って哀しみました。  「あんなに元気だった矢間が、こんなに変わり果てた姿になるなんて」皆で札の原に丁寧に葬りました。忠義で利口な犬でしたので小左衛門は、『天明七年十一月二十四日名犬矢間の墓』と石に書き、矢間の姿を石に刻み、札の原に建てました。今もそのまま建っています。  これは二百年余り前の話です。     ※雲仙湯守の宿 湯元ホテル公式HP     →「施設案内」→「湯元のはなし」より転載(一部加筆)  200年以上前の世界でもイヌと人とは互いに愛と信頼の強い絆で結ばれていたということである。この宿に泊まろうか、いま、心がつよく動いている。 本ブログは,来月から 次のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月29日水曜日

クールビズヘアとインポッシブルドリーム   ~決められない国の決められない人たちへの子守歌~

 今日、ラジオを聴いていたらニュースで「今年の男性向けクールビズヘアが発表された」ということを伝えていた。クールビズヘアは、何年か前から続けているという。初耳だった。軽く驚いた。  政府が薦めるクールビズに合わせて、全国のおよそ7万店の理容店が加盟する全国理容連合会が発表したものだという。もちろん全く強制力は無いだろうし、善良に解釈すれば、床屋さんたちが「こうすれば涼しく、かつカッコ良く過ごせますよ」と助言してくれているわけで、とりたてて問題はないかも知れない。  だが、僕は、どうしてもこのような政府のかけ声に呼応する形で提案される髪型に定向を感じる。  昔、僕の育った町の理容店のほとんどに、中高生に相応しい髪型というポスターが貼られていた。刈り上げて耳と首筋を出し、前髪は眉までかからないように、とか何とか書かれていた。おそらく日本中の少なからぬ町の床屋さんに、この種のポスターが存在したのではないだろうか。たしか、生徒指導連絡協議会とかの「お墨付き」だったと思う。ビートルズが全盛だった頃のことだ。  髪の毛は個人の身体の一部分で、それをどうデザインするかは、その人の自己表現に属する問題だ。決して「このような髪型にしなさい」と強制されるものではない。この原則が第一番目になければならない。  学校は生徒を育てる場である。だから、生徒の髪型や服装を生徒の自己表現としてまず受け止めなければならない。そのうえで、生徒がその自己表現を通して帰属しようとしている文化や価値観に問題があると判断される場合は、正面から堂々とその問題点を指摘し対等な立場で論議するべきだ。  つまり、髪型や服装に関する指導は、すぐれて鮮やかに一つに思想闘争になる。 「規則だから」とか 「中学生(高校生)らしくないから」などと安直な理由にしがみつくべきではない。力をもって強制しようとした瞬間に教育は敗北する。  ニュースを聴いて、こんなことをふっと思い出したのだ。  教師になった僕が、こんな主張をしたとき、ある先生は言った。 「キミ、それは理想論だよ。現実をみなさい」 現実を見よ、という決め台詞にもずっと長い間辟易していた。 ミュージカル「ラ・マンチャの男」の作中でドン・キホーテを演じるセルバンテスが言った言葉。 「事実は真実の敵だ。」 「狂気とはなにか。 現実のみを追って夢を持たぬのも 狂気かも知れぬ。 夢におぼれて現実を見ないのも 狂気かも知れぬ。 しかし、最も憎むべきは、 ありのままの人生に折り合いをつけて、 あるべき姿のために戦わぬことだ。」 そして、彼はドン・キホーテに扮して、この歌を歌う。 「THE IMPOSSIBLE DREAM」 To dream the impossible dream To fight the unbeatable foe To bear with unbearable sorrow To run where the brave dare not go To right the unrightable wrong To love pure and chaste from a far To try when your arms are too weary To reach the unreachable star This is my quest to follow that star No matter how hopeless, no matter how far To fight for the right Without question or pause To be willing to march Into hell for a heavenly cause And I know if I’ll only be true To this glorious quest That my heart will lie peaceful and calm When I’m laid to my rest And the world will be better for this That one man, scorned and covered with scars Still strove with his last ounce of courage To reach the unreachable star The fight the unbeatable foe To dream the impossible dream 特に若い世代に問いたい。  もし、「クールビズヘア」にまったく違和感を感じなかったら、もう一度ドン・キホーテの言葉を噛みしめてみてほしい。  日本が政略戦争に転げ落ちていった頃、男性の長髪や女性のパーマや長い髪も憎しみの対象だったという事実もあることを付け加えておきたい。  本ブログは,来月から 次のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月28日火曜日

 一昨日から急速に気温が上がった。  連日、昼間の気温が25℃に迫る。4日前は6℃とか7℃だったから大変な飛躍だ。もう少し中間の「ちょうど良い」くらいの気温にならないものだろうか。  元々高温に弱い羅臼の人々は、まだ身体が馴れないうちに一気に真夏に近い高温に襲われて「暑いねえ」という会話が言葉が飛び交っていた。  以前の日記を見るとちょうどこの時期にエゾヤマザクラが満開になっていた。今年は、まだ、葉も伸びきっていない.エゾヤマザクラは花よりも葉の方が先に出てくるのだ。  昔、父から聞いた思いで話だが、彼が中学生(旧制中学校)の時、「山桜」というあだ名の先生がいたという。その理由は「鼻より歯が先に出ているから」という理由だったという。  「昔の中学生は、なかなか気の利いたあだ名を付けていただろう?」と自慢そうに話してくれた。  父が死んで、まもなく4週間が経つ。  正直なところ、あまり喪失感のようなものはなく、淡々と父の死を受け入れることができているように思うのだが、最近になってふとした拍子にこのようなことを思い出すことが増えた。  亡くなった人は、このような形で、生きている者に別れを告げるものかも知れない。 本ブログは,来月から 次のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月27日月曜日

春の不安

 今日は27日だ。  毎年、この時期はせき立てられるような心の泡立ちと取り残されるような寂しさの混ざった感じを覚える。  あと一ヶ月後には、夏至を過ぎ、日が短くなり始めているという事実を考えるからだ。  気温の上昇する夏は、まだこれから始まるのだが光は、もう既に秋の気配を含み始める。「春が終わる」という寂寥感なのであろうか。  今日の、今のところの最大のニュースは大阪市長をやっている橋下氏の外交人記者クラブにおける記者会見での発言のようだ。  本来なら取るに足らぬ、まともに相手にするような人物ではないだろうが、どういう訳か彼が口を開くとマスコミが注目し、彼の言葉を垂れ流す。なぜだろう。  皆が心をときめかすほどの美しい言葉か。力強い言葉か。勇気わく言葉か。  すべてはその反対ではないか。  薄汚れた自己顕示欲にまみれた醜い単語、心を傷つける言い回し、忍び寄って背後から刺すような卑怯な表現。これが彼の言葉のすべてだ。  彼の目つきを見ている人は多いだろう。あの目は、自由と労働を軽んじ、真理と正義を憎む目だと思う。  おそらく彼は、その生育過程で、よほど酷い経験をしてきたに違いない。人の愛や善意を全く知らずに育ったのだろう。同情を禁じ得ない。しかし、多くの人に影響を与える政治家や首長のポストに就くべきではない。この種の人物が政治家になった場合、政治の方向を必ず誤らせてきたことは歴史が示しているのではないだろうか。  そのために、有権者の賢さが求められるのではないだろうか。 本ブログは,来月から 次のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

よって立つウトロと羅臼

5月26日(日)  昨日からウトロと斜里を放浪している。  知床財団の評議員会と知床大学院大学設立財団の理事会とが連続したためだ。  AFANと一緒の「旅」だ。  昨夜は、懇親会の酔いもあって、自分の部屋に戻らず車の中でAFANと一緒に眠った。  昨日から気になっていることだが、ウトロ市街地に全然にぎわいが見られない。観光客はチラホラとは見かけるが、毎年の風景である団体客を乗せた大型バスが少ない。  マスツアーの団体がゾロゾロと集団で歩いている図は、個人的にはあまり好きではない。こんな落ち着いた雰囲気ならウトロの夏は最高だ、などと思ったが、観光に頼って生活している人々にとっては、大きな傷手であろう。多くの土産物店、食堂など閉店している店も少なくない。町に活気がないと感じるのはそのせいもあるだろう。  原因は明らかだ。知床峠の冬季閉鎖がまだ続いているからだ。  例年なら5月上旬には開く。早い時には大型連休前に開通することもある。今年も最初は、その予定だった。予定が狂ったのは連休中に大雪が降ったためだ。平地でも数十センチ積もったというから山の積雪はもっと多かったのだろう。おまけに雪崩があったという話も聞いている。  開通に向けて着々と進められていた除雪作業も振り出しに戻ってしまったというわけだ。  斜里町ウトロ地区と羅臼町は、知床半島を挟んでほぼ同じ位置にある。二十数キロの峠を越えれば片道30分程度で行き来できる。そこが通れないとなると半島の基部を迂回して120キロくらいの道のりになる。2時間と少々かかる。 この二つの地域は、何かというと比較され、反目し合うというほどではなくても対抗意識から対立するような事もあった。  知床峠が利用できると、団体客のツアーは、ウトロを観光し、峠を越えて羅臼側で海産物などを買い求め、釧路湿原や阿寒へ向かうというのが「黄金のルート」のようだ。  峠が閉鎖されていると、ウトロを訪れても同じ道を戻らなければならない。そのためキャンセルやコースの変更で団体客が激減しているのだろう。  今回の事態は、特に観光業にとって、「羅臼あってのウトロ、ウトロあっての羅臼」であることを実感させてくれた。  知床は一つなのである。 本ブログは,来月から 次のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月25日土曜日

会議とハチ・・・・なんだか忙しい春の週末

 この季節になると数年前から超多忙になる。  セイヨウオオマルハナバチの講習会をあちこちで開くからだ。  遠いヨーロッパから運ばれ、住み慣れない日本のビニールハウスに放されたまではよかったのだろうが、生きものの常として生息域を拡大しようとする衝動に動かされ、ハウスを脱出し、北海道の大地に広がった。  すると法律で「特定外来生物」というレッテルを貼られて、見つかり次第追い回される。捕獲されると管瓶に閉じ込められて命を奪われる。  ただでさえ屋外では外敵も多いのに、法律までもが自分たちを追い詰める。 「トキの雛がカラスに襲われて死んだ」と大きく新聞に載り、人々はそれを読んで「ああ、残念」と嘆く。その陰で、仇のように追い回される虫もいる。  どちらも生命に違いはない。   一方、「講習会」を開く側もけっこう大変なのだ。やっと巡ってきた週末。家の周りも片付けたい。犬たちの遊び場のフェンスも作りたい。クルマの整備もしたい。  山のように溜まっている課題を尻目に、今日も家を出る。  講習会が終わったら知床財団の評議員会。明日は、知床自然大学院大学設立財団の理事会。斜里とウトロを行ったり来たりすることになる。  おまけに今年は、知床峠がまだ未開通だ。  「互いにけっこう辛いね、ハチよ。」と声をかけたかったが、外気温は9℃。ハチは1頭も姿を見せなかった。 本ブログはまもなく以下のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月24日金曜日

クマ住む町で思うこと その2

(「その1は昨年の5月24日」)  今月に入って町内でエゾシカの有害駆除が始まった。 北海道内の市町村は、どこでもエゾシカによる農林業への被害に悩まされている。羅臼町も例外ではないが、知床半島基部の他町に比べると町内のエゾシカの個体数は減ってきている。  それは、羅臼町内のハンターの連携が上手くいっているからだろう。そして、リーダー格のハンターの射撃技術が優秀だということもある。遠距離の射撃はそのようなベテランが引き受け、近くにいるエゾシカはショットガンを持つ人たちが撃つ。撃ったシカは回収部隊が回収する、という流れが確立している。  それでも、険しい崖の途中や急流を挟んだ対岸にシカがいる場合、たとえ弾が届く距離でも撃てない場合がある。それは、回収ができないと判断された時である。  市街地に近い場所で駆除を行っているので、そんな場所に死体を放置できないからだ。市街地の近くにシカの死体を放置すれば、確実にクマを誘引する。真っ先に考えなければならないのは、このことだ。 羅臼では、街でお酒を飲み、家まで歩いて帰る数百メートルの間にヒグマと遭遇する可能性はゼロではない。  「現代の日本で、熊スプレーを持ってお酒を飲みに来るなんて、羅臼くらいのものだろうな」と話して笑い合ったことがあったが、これは冗談ではないのだ。 よく、そんな所によく住めますね。怖くないですか、と質問される。たしかに怖い。  だが、よく考えると意味もなく人が刺されたり、ナイフを持った者が暴れたり、クルマが突っ込んできたりする都会の危険の方が起こる可能性が大きいかも知れない。 ヒグマの襲撃には理由がある。理由もなく人を襲うことは無いと考えてよい。十分に用心し、こちらが襲撃の理由を作らないように心がければ、事故はほぼ100%防げるだろう。  そんな「ヒグマの心を読む力」を子どもたちにつけてもらうことを目指して、今年もクマ授業の季節がやってきた。 本ブログはまもなく以下のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月23日木曜日

 はじめに断っておくがこれは決して個人的非難や攻撃ではない。  先日ある会合の席で小学校低学年を担当する先生と話す機会があった。  以前から気になっていたことだが、低学年向けの「せいかつ科」などの教科書に載っている生物の種類が北海道には生息していないものが多すぎることを指摘した。たとえばある教科書には、「はるのなかまたち」としてクマバチ、ヤマトシジミ、タガメなどが載っている。  日本の自然は多様性に富んでいるからそのこと自体は構わないと思うのだが、地方の教育では、そのような教科書の記述を補う資料または副教科書のようなもので、この地方特有の生物相について、取り上げておくべきではないか、という意見を僕が述べた。  それに対して、その先生は、わざわざ副教科書のようなものを作らなくても、ビデオなどで教科書に載っている生き物を見せればそれで良いのではないか、と反論した。  ちょっと驚いた。  いや、正直に言うとものすごく驚いた。開いた口がふさがらないほど驚いた。  そして、この先生ご自身も、おそらく生き物に触れる経験を十分に持てないまま、教師になったのではないだろうかと考えた。そのような環境で成長されたのかもしれない。  あらためて自然体験の重要性を感じた一瞬だった。  そんな思いを抱きながら今日の羅臼高校2学年「野外観察」の生徒を学校から少し離れた牧草地に連れて行った。途中の渓流の景色を楽しんで、広大な牧草地に着いた。記念写真を撮るのにも大はしゃぎをしている。しまいには鬼ごっこをやり始める。  うん。体験させる教育が、人間の成長には絶対に欠かせない。  いつの日か、冒頭の発言をした先生にも生の自然を感じとってもらいたい。  本ブログはまもなく以下のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月22日水曜日

 「TEACHERS OPEN DOOR, BUT YOU MUST ENTER BY YOURSELF」学ぶということ

 先日訪問したアメリカの高校の生物教室に張ってあったポスターに書かれていた言葉だ。  「教師は扉を開けるが、入るのはキミ自身だ」とでも訳せばいいだろうか。教師は、学問の世界の入り口まで生徒を導き、入り口のドアを開けて示すことはできる。だが、そこから学問の世界に踏み込むのは生徒自身の意欲次第だ、という意味である。  別な例え方で「泉のそばにウマを曳いていくのは飼い主の人間だが、水を飲むかどうかを決めるのはウマ自身だ」とも言われる。  学ぶということの本質を突いた言葉だ。 そう考えていくと学習指導要領なるものをどれほどいじくり回しても、学ぶ主体(児童生徒) が本気で取り組まなければ、学びは成立しないことが明らかになる。もちろんそこに介在する教師の力量や技能も重要な要素である。  だから指導要領は、本質的でシンプルな方が良い。ガイドラインと言って良いかもしれない。  「『あれとこれは、必ず教えるようにしなさい』と指導要領で指示しました。だから子どもたちに学力が身につかないのは私たちの責任ではありません」という役人のアリバイ作りだったとしたら、日本の教育はあまりに貧しい。 本ブログはまもなく以下のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月21日火曜日

少子化バンザイ!

 日本の少子化を心配する声が強い。政府は具体的な対策も打ち出している。マスコミでもまるで大災害が来るかのように取り上げられる。  「少子化はあってはならないこと。絶対に回避しなければならないこと」という常識がすでに出来上がっている。  だが僕はこれは胡散臭いプロパガンダではないかと思う。  少子化し、人口が減少したらどんな事態が起きるだろう?  まず、経済的な生産性が落ちる。  それは理解できる。  それから年金や健康保険を支える働き手の負担が増す。  それもわかる。  他に何があるだろう?  まさか、苦しい、汚い、危険な作業の担い手がいなくなる、なんて言わないよな。それらを海外からの労働力に頼って、階級社会を認め奴隷制度を復活させる、なんてことはないだろうな。  人口が減少したら良いこともあるのではないか。  渋滞や過度の混雑、通勤地獄などが解消されゆったりと気持ちの良い暮らしができるのではないかな?  ニュージーランドやノルウェー、シベリアで感じた土地の広大さ、手つかず(手をつける必要のない)自然豊かな地域の広さが日本でも味わえるようになるだろう。野生動物も暮らしやすくなるはずだ。  学校も教室の面積を広げ廊下の幅も広くとれるようになるに違いない。学級定員だって今よりずっと少なくすることが可能になろう。(本当は今でもしようと思えばできるのだけど)  困るのは、モノを売る人(企業)たちだろうか。市場が小さくなって、売り上げが減るだろう。居酒屋とかカラオケ店なども困るだろうか。  しかし、消費の規模が小さくなることは環境への負荷も小さくなることを意味している。GDPなどの数値は下がるかも知れないが、それらはどうも見かけだけの数値のように思う。年金や保険の負担だって、根底から発想を変えれば今と同じ割合で現役世代に頼る必要はなくなるだろう。  こうなると、人口減少は良いことの方が多く、困ることはあまり無いように思われてくる。少なくとも人口減少社会が来ることを怪獣が襲来するかのように恐れる必要は無いのではないか。  以上のようなことを今日、同僚と話し合った。  すると人口の母集団が小さくなると、優れた頭脳の持ち主が生まれる確率も小さくなるのではないか、という危惧が出された。一理あると思った。  だが、実際にはどうなのだろう。例えばノルウェーの人口は約500万、スウェーデンが1千万弱、アイスランド31万、アメリカ合衆国約3億人だ。  これらの国のノーベル賞受賞者数と人口に占める受賞者の割合を概算してみた。           (2013年1月現在 ノーベル賞公式サイトを参照した) ノルウェー 9 約55万人に1人 スウェーデン 31 約31万人に1人 アイスランド 1 約31万人に1人 アメリカ 326 約95万人に1人 フランス 56 約110万人に1人 イギリス 108 約55万人に1人 ドイツ 81 約98万人に1人 日本 18 約510万人に1人  となる。アメリカなどは帰化した人も多いから単純に比べることはできない。しかし、これらの数字から日本でも、学校、社会、家庭の教育を何とかすることで、人口が減少しても優れた頭脳が誕生する確率が減る、とは言い切れない。 本ブログはまもなく以下のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月20日月曜日

病む人々

 猟銃所持免許の更新時期が迫ってきたので、今日はそのための健康診断を受けてきた。 4年前の銃刀法の改正によって、それまでどこの病院で受けてかまわなかったものが、精神科医による診断に限られるようになった。  そのために根室市の病院へ出かけた。半日で済むものと思っていたら、他の患者さんで混み合っているとのことで、午後からの受診となった。 その病院は内科の外来診療もしているから、月曜日の今日は、特に混雑するらしい。しかし、心を病んでいる人々も少なくない様子だった。  根室市の人口は3万人を切っているはずだし、「ギスギスした都会」という印象でもない。それでも、やはり悩みを抱え、追い詰められているらしい人々が少なからず暮らしているのだという現実を思い知らされた。 これが現代日本の縮図なのだろうか。どうしたら、もっと皆が幸福感を感じながら生活できるようになるのだろう。  思いがけなく、そんなことを考えさせられた日だった。 本ブログはまもなく以下のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月19日日曜日

野鳥 夜話(よばなし) 裏話(うらばなし)

 昨夜、日本野鳥の会ねむろの定期総会があった。  その後、恒例の懇親会席上での会話。  A「なかなか暖かくならないねえ」 B「鳥のもなかなか鳴かないよね」  僕「アオジは鳴き始めたようだけどね」  B「アオジじゃねえ・・・・」  僕「でも、僕はアオジ好きだなぁ。アオジに何度も救われましたよ。探鳥会で」  A「『困ったときのアオジ頼み』ってあるよね」  僕「そうそう。とりあえずスズメじゃない、というところで惹きつけられるよね」  A「そう。なかなか良い声だし、姿も黄色味が強くてきれいですよね。よく見ると」  僕「何より、目立つ枝先で鳴いてくれるから見つけやすいしね」  B「うーん。そうだね。考えてみると良い鳥だよね。確かに」  アオジは北海道の森林から緑地の多い市街地などでよく見られるスズメ目ホオジロ科ホオジロ属の小鳥。スズメくらいの大きさで上面は褐色に黒い縦縞。腹側は薄い黄色。上嘴は暗褐色、下嘴の色彩は淡褐色。後肢の色彩は淡褐色。オスは眼の周囲や喉が黒い。  比較的声量のある柔らかな声でゆったりとさえずる。歌は緩急のあるリズムで心地よい。    個体数は多い方で、現在のところ希少種ではない。そのため探鳥会などではあまり重視されない存在だが、よく考えてみるとありがたい存在なのである。 本ブログはまもなく以下のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月18日土曜日

寒冷地住民の特権

 今日、やっと乗用車のタイヤを交換した。  例年だと5月の連休前に換えてしまうことが多い。この付近の人々は、ほとんど連休明けに換えている。  「雪が降ったら乗らない。峠越えはしない。」と割り切れば、4月下旬に交換してもかまわない。  今年は、4月下旬から訪米したこと、父が札幌で入院していたため札幌へ行く機会が多かったこと、さらに雪が降った時に使うべき四輪駆動車が車検と修理のために整備工場に入っていたことなど多くの理由が重なって今日まで延びた。  ところで、冬用のスタッドレスタイヤから夏タイヤに換えた時の感覚は大好きだ。騒音が一段と少なくなるし、アクセルを戻して惰行に移ってもいつまでも停まらずに走り続ける。燃料を使わないで距離を稼げばそれだけ得をしたように感じる。  タイヤ交換などという煩わしい「行事」の不要な地域に住んでいる人も多いと思う。夏タイヤに換えた時のヨロコビを味わえるのは、寒冷地に住む者の特権かも知れない。 本ブログはまもなく以下のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月17日金曜日

アメリカで出会った鳥たち

 先月19日から今月2日まで、フルブライト日米教育委員会の事業「ESD日米教員交流プログラム」に参加させて頂いて訪米した。  その時出会った鳥たちのうち、写真をライブドアブログで紹介しています。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/

2013年5月16日木曜日

科学はロマンであるべきだと思うのだが

 羅臼高校「野外観察」の授業で鳥の鳴き声を聴きに外を歩いた。  朝のうち降っていた雨は上がっていたが、例年にない寒さで、鳥もあまり活動的でなくなかなか鳴き声を拾うことができなかった。  そんな時は、つい地面に目が行く。草むらの水たまりでカエルの卵塊を見つけた。退屈紛れにすくい上げてみると、ちょうど原腸胚の後期らしく卵黄が原口に吸い込まれ、卵黄栓(卵黄プラグ)と呼ばれる状態の胚であった。  この時期の胚は、もう少し時間が経つと卵黄栓が完全に体内に収まり、真っ黒な球にしか見えない状態になる。だからカエルの発生過程ではなかなか観察し難い段階の一つなのだ。  生物を選択している生徒に声をかけて、そのことを説明しようとしたところ現役の生物教師から待ったがかかった。 「いま、個体発生は教科書から消えました」と。  指導要領が新しくなったことは知っていた。しかし、僕が高校生だった頃から生物の教師になって、退職するまでの間、ドイツのシュペーマンが繊細な実験と緻密な観察によって見つけ出した発生学は生物の重要な単元であった。それをあっさり捨て去って、高校生たちに生命の何を教えようというのだろう?  生物学の学習は観察が重要な位置を占めている。受精卵のどこから卵割が始まり、細かく分裂した細胞がどのように組織されて個体の身体ができあがるかは、生物体を理解する基礎だと思う。  その上で分化した組織が、どのような仕組みで有機的につながった器官や器官系へと発達していくかへの疑問が生じ、より深い学習への入り口になる。  専門的な研究者にならない子であっても、将来自分や自分の愛する相手が、子どもを宿す時、このような過程で我が子の身体が形成されていくのだというイメージは持つことができるだろう。  学問はロマンだと思う。  生物の教科書から発生を消すのは、日本の生物教育からロマンを消し去ることのように感じられてならない。  発生が進み、原腸胚後期になっている。黒い卵の表明に見える白い小さな丸い点か、卵黄栓で、やがて体内に吸収さる。そこが原口で、将来肛門になる。

2013年5月15日水曜日

酪農地帯の神社は酪農地帯に相応しい装い

 今日の午後、別海町の文化財保護審議会があった。 その席上、旧西別神社(現別海神社)祠(ほこら)が別海町歴史文化遺産として認定された。  この祠は、昭和9年(1934年)に、建造された西別神社(現別海神社)の本殿として鞘掛けされて使われていた。「鞘掛け」とは小さな建物を大きな建物でスッポリと覆うことだそうだ。  西別神社は昭和3年(1928年)に建立されたもので、その時からこの祠が使われてきたもので、少なくとも建造から85年は経っていることになり、たいそう古いものだということがわかる。   会議が終わってから現物を確認するために別海神社まででかけた。  祠には、本殿の横の手前に建てられており、しめ縄が張られていた。  不信心な僕は、神社になど来ることはほとんど無い。良い機会だと思い、祠や本殿の建物をじっくり観察した。すると、普段は見過ごしているいろいろな発見があった。  その一つがここに張られていたしめ縄である。最初は全然気づかなかったのだが、よく見るとこれがトワインでできているのだ。トワインというのは、牧草をまとめたものを縛るナイロン製の紐のことだ。牧草は、今はほとんど機械で巻いて大きなロールにする。昔は、人が持ち運べるくらいの大きさのコンパクトと呼ばれる立方体の形にまとめた。どちらにしてもナイロンを撚り合わせた細い紐でまとめる。  別海の主要な産業は酪農だ。ウシを飼い乳を搾るのだが、冬の間の主要なエサは乾草だ。そして、乾草を作り蓄えておくのは春から秋までの間だ。酪農とトワインは非常に深い関係にある。  しめ縄というのは内地では稲ワラで作るのではないだろうか。それが普通のことだと思っていた。米の獲れない根釧原野でも、神様を飾るしめ縄くらいは、遠くで求めた稲ワラを使っているものと思い込んでいた。  だが、この祠だけでなく本殿の正面に張られた大きなしめ縄もやっぱりトワイン製なのだ。  このアイデアに思わず頬が緩み、神様も粋だなと思った。地元の人々の生活を守るのだから地元で使われる材料でしめ縄を作るべきなのだ。氏子に過大な負担をかけてわざわざ遠くから稲ワラを求めることを潔しとしないということだろう。  稲ワラのしめ縄は、稲作地帯で大量に生み出されるイネの茎を利用して作られる。酪農地帯では、その地で大量に余る使用積みのトワインを使ってしめ縄にするのは、きわめて理に適っていると言うべきだろう。  それに、石油製品のリユースという資源の有効利用にもなっている。これこそ地元の特色を生かしている好例ではないだろうか。  これまであまり関心のなかった神社が、突然身近なものに思われた今日の体験だった。

2013年5月14日火曜日

生き方・死に方・葬り方

 父の死去に伴う一連の手続き等のために先週末から今日まで札幌に行っていた。  教員としての一生を貫き、親として子どもを守り育てることに没頭した父の人生だったから、借金も遺さなかったし多額の財産を遺したというわけでもない。  それでも一人の人間の生涯を終えるにあたって、するべきことは案外に多いもので、昨日一日と今日の半日、札幌市内を駆けまわって、ほぼ一段落を迎えることがきた。  あらためて、ヒトは独りでは生きられないものだと感じられた。  父は葬儀を拒否した。  生前から繰り返し葬式はするなと言っていた。そして、僕らはそれに従った。92歳と高齢だったために兄弟姉妹親戚や友人がほとんど残っていなかったこと、函館市で生まれ育ち働いてきた父には、札幌市には、知り合いがほとんどいなかったことなども、そんな決断を助けた。  5月5日の朝、父の身体は札幌市の里塚斎場から煙となって曇り空に拡散していった。見送ったのは、本当の近親の者だけだった。  死生観や価値観は多様だからいろいろな考え方があって良いと思う。故人の功績を讃え、大勢が詰めかけて別れを惜しむ場を設けたいと考える人も少なくないだろう。人生のけじめだからと思う人も多いと思う。身内の者の死を受け入れるために儀式は必要だとする考え方もあると思う。これらのどれも間違っていないと思う。 それに加えて、人の死に伴うしきたりや儀式は、他に比べてもっとも保守的で変わりにくい性格だろう。  そのような一般的な環境の中で、自らの葬り方を強く主張した父の「自己主張」に対して、あらためて軽い驚きを覚える。なぜなら、父は、これと言った政治的な主張や趣味もなく、ひたすら家族に尽くすことを自分に課する生き方をしていたからだ。  誰にでもあるお決まりのことだろうが、僕は高校から大学にかけて、人生観や思想や価値観などで父と激しく対立した時期があった。親子であるという事実の下で、その対立は緩和されいつの間にか曖昧になって時が流れたのではあるが、底流には相容れないものが最後までわだかまっていたように思う。  そして、最後の最後で、この「葬り方」を通して、彼は僕に強い主張をぶつけてきたのかも知れない。  これから時間をかけて、考えて行くことになるだろう。

2013年5月10日金曜日

カリカリベーコンの謎を解く

 今回の旅で泊まったアメリカのホテルでは、例外なく朝食にカリカリに焼いたベーコンが出された。今回に限らず、以前行った時も同様だった。  今日、同じ事務所にいるアメリカ人のALT(英語指導助手)のワイアットにそのことを尋ねてみた。 「アメリカ人は、本当にカリカリベーコンが好きなんだね。」  彼は、 「うん。だからコレステロールの高い、肥満した人が多いのさ」と苦笑混じりのジョークで応え、それから真面目な顔になって、次のような説明をしてくれた。  開拓時代からアメリカの家庭では、伝統的にニワトリとブタを飼っていた。冷蔵庫の無い頃には肉を塩蔵してベーコンとして保存することが多かった。もちろんロースやモモなどのように高級な部位も保存していたが、脂肪分が多く焼けば風味のある脂が出てくるベーコンは、調理の仕方も多様で利用しやすかった。また、他の部位に比べて値段が安いということもある。   このような理由で特に朝食のおかずにカリカリベーコンが出されるようになった。  以上の話を彼はお祖父さんから聞いたという。  この話を聞いて、僕はあらためてアメリカは農業国としてスタートしたのだということを思い出した。いや、アメリカが独立したのは1776年のことだから、当時の世界は農林水産業が中心だったのだ。ほとんど農業しかなかったと言えよう。  だが、それにしても現代のアメリカ人の間に、18世紀から続く伝統が残っていて、若い世代の間でもそれがきちんと意識されていることに感心した。  アメリカと言えば資本主義の旗頭で、今では金融資本の総本家になっている。アメリカの失業率や物価、金利などで世界の経済は振り回されていると言って良いだろう。  それでも、自分たちの先祖の生活を忘れないで、代々語り継いでいるのだ。  「農業国」として側面が、もっと前面に押し出され「自分たちの食べ物は自分たちの手で作る」という精神や農作物を商品としか見ない姿勢をあらためたら、世界はもっと変わっていくのじゃないかな、と考えた。 

2013年5月9日木曜日

長引く「イラクサの日々」

 北海道周辺の気圧配置は、このところほとんど変わることがなく、今日も強い北西よりの風が吹いて、気温の上がらない一日だった。  ジェット気流の蛇行に伴って、寒気が南下してきているのだとか。  五月中旬に入ろうという暦を考えればさすがにうんざりするような冷え込みではある。  しかし、ものは考えようで、この低温で植物の成長が足踏みしている。芽を出し始めたばかりのイラクサが、ちょうど食べ頃の状態でわが家の周辺に広がっている。どれほど採っても採りきることにはならない。低温が続けば、この食べ頃の芽吹きを長く楽しむことができる。  イラクサは、おひたし、きんぴら風、卵とじ、天ぷら、細かく刻んで汁の実にと、いろいろな食べ方ができる。お風呂に適量を入れて入浴剤にもなる。  おまけにタンパク質やミネラルが豊富で、アレルギーの緩和、利尿作用などの薬効もあるらしい。 まことに良いことずくめのハーブだ。 しかし、イラクサには棘があり、棘の基部にはアセチルコリンとヒスタミンを含んだ液体の入った袋を持ち、棘に触れその袋が破れて皮膚につくと強い痛みが起きる。そして、無数の小さな針が皮膚に突き刺さっているかのような不快感がしばらく続くのである。酷い場合には火ぶくれができることもある。  「イラクサ」という名もそれに由来しているのだろう。  だから、山野草の中で、とても意地悪なものに思えている。  そのせいか山菜ブームになっても一向に人気がでなかったのもイラクサだ。  やれギョウジャニンニクだ、タラの芽だと人気の山菜に人々は群がっているが、イラクサが注目されないことに少しだけホッとしている自分は、やっぱり意地悪だろうか。

2013年5月8日水曜日

強風の羅臼

 昨夜から吹き荒れた風は、今日になってもおさまらなかった。これほど悪天候が続くのも珍しいと羅臼に昔から住む人々が話していた。  羅臼には、過去にも想像を絶する強風が吹いて大きな被害を出したことがある。  羅臼町百年史によると風による災害の代表的なものに以下のようなものがあった。 ◎1954年(昭和29年)5月10日発生  最大風速50メートル、家屋の被害439戸、漁船被害87隻、人的被害 死者2名、 負傷者8名、行方不明者27名 ◎1959年(昭和34年)4月6日発生 最大風速45メートル、家屋の被害117戸、漁船被害49隻、人的被害 死者7名、負傷者4名、行方不明者82名  それぞれ「5・10災害」、「4・6突風」と呼ばれている。 完全に平坦な海上に1500メートルを超える山がニョキッと突きだしているのが知床半島だ。何者にも阻まれることなく進んできた風は、突然山にぶつかる。そこは尾根や谷が複雑に入り組んでいる場所だ。山を越えた風が、それまで以上に勢いよく吹き出してくることになる。  羅臼の突風はこうして生じる。 突風は災害をもたらすことも多いが、実は海面を泡立て酸素を溶かし込むことできれいな水を作りだし、水中で生物が住みやすい状態にする。その結果として魚も豊富になる。  強風は諸刃の剣なのである。

2013年5月7日火曜日

「社会復帰」の日々

 久々に出勤した。  当然なことで、やむを得ないことだが、様々の仕事が溜まっていた。郵便物や連絡書類、メールもそれなりのボリウムで待ち受けていた。  それらが錯綜し、少々多忙な一日だった。  少しずつ環境に馴化していかなければ。海外から帰ってくるといつもこうなのだ。    そして何より、羅臼町で行われているESDを質・量ともに高めていく必要がある。それには、先生たちの意識を今以上にESDに向けていくことが不可欠だ。そして、羅臼らしいESDを作っていかなければならない。  今回のプログラムでもっとも強く感じたのは、ESDにおける環境教育の重要性だ。言い換えればESDにおける環境教育の優位性とも言えるだろう。この点に関してはESD関係者の間でも必ずしも意見の一致を見ていない。  しかし、国際理解や平和教育、世界遺産教育などをどんなに推進しても、自然環境と人間との関わりの歴史とあり方への正しい理解がなければ、結局は人類の生きる環境を破滅に導いてしまうのではないだろうか。 今後考えねばならない課題が、あまりにも多く、「社会復帰」の過程でこれらを上手に整理していく必要がある。

2013年5月6日月曜日

「指差し、確認、喚呼」と人間性と安全運行

 一昨日、羽田空港への移動は京急線を使った。  先頭車の一番前の座席に腰掛けていると、若い男性の声で何かを叫んでいるのが聞こえてきた。  都会では、相手が目の前にいないのに、独りで何か呟いているような人がたまにいるので、最初のうちは気にならなかった。しかし、断続的に聞こえてくるその声が、いつまでも止まないので、耳をそばだてて言葉を聴き取ろうとしてみた。  すると、 「第一閉塞、進行」とか「大森海岸、場内進行」と言っている。運転室で運転士が信号を確認する声だった。  「なーんだ」と思うと同時に、ふとある疑問が浮かんだ。  多数の人の命を乗せて走る電車の安全を確保するためには、声を出して信号を確認するこの方式は、非常に効果的だとされている。その通りだろうと思う。しかし、自分以外の人間のいない密室で、機械を相手にして信号を指さし、大声で確認している運転士の姿は見ようによっては、人間ではなく「電車」という機械システムの一部に組み込まれた部品のような不気味さを感じさせるものでもある。  言うまでもなく大量輸送機関の使命の第一は、「安全」である。そのために運転士に声を出して確認するよう求めること、そう教育することは有効であろう。だが客室にまで聞こえるほどの大声を出す必要があるのだろうか。なんとなく、「当社の運転士は、このように声を出して信号を確認しておりますヨ。どうです?いかに安全な電車であるか、わかるでショ」と、会社から過剰にアピールされているように感じてしまうのだ。  つまり、本当に安全のためではなく、会社のイメージ演出の手段として無理強いされているように感じたのである。  おそらく社内の規定などによって、半ば強制的に声を出して確認することを迫られているのだろう。声の質が無機的で、人間らしさが伝わってこない。  それでも、鉄道という交通機関に、人間らしい温かさと柔軟さが欲しいと思うのだ。それは僕のノスタルジーに過ぎないのかも知れないけれど。  考えてみれば、現代の僕たちは、知らず知らずのうちに特定のシステムに組み込まれ、部品のように扱われて、自らの人間性を圧殺しながら毎日の仕事をこなしていないだろうか。  「指差、喚呼、確認」は、きわめて有効な安全のための動作だということは、理解している。ベテランの運転士は、皆実行していることだろう。それでもなお、この場合には、何とも言えない違和感を感じた。  その違和感は、人間性を失わせる方向でしか働かない「現代社会のシステム」の匂いをかぎ取ったために感じたに違いない。  いろいろなことを考えた、朝のひとときだった。

2013年5月5日日曜日

父との別れ

 米国からの帰国を待っていたかのように、3日午後8時に父が死んだ。  成田空港に到着し、全ての手続きを終えて出てきたのが午後2時過ぎ。その後、接続の飛行機が無く、その日は東京に宿泊することになっていた。予約してあったホテルにチェックインして一息ついていた夜の7時半過ぎに容態が危険な状態になったという連絡が入った。その後すぐに死亡したという連絡が来た。拍子抜けするようなあっけなさだった。  成田に着いてすぐに連絡があったなら、宿泊をキャンセルして駆けつけることができたかも知れないなどというのは結果論というものだろう。むしろ、僕の帰国する日まで待っていてくれたと考えるべきだと思った。  癌に冒され、最後は何も食べられなくなりながら、よく頑張ってくれたと思う。その結果、極端に軽くなった身体は、最終的には一抱えにも満たない骨に姿を変えた。  火葬直後の骨を入れた骨壺から胸に伝わってくる余熱が、父の体温であるかのような錯覚にとらわれつつ、92年間の人生が偲ばれた。もちろん子として理解できる範囲ではあるが。

2013年5月2日木曜日

5月2日(木)・・・帰国

 合同会議は10時過ぎに終わり、参加者は思い思いに街に散った。サンフランシスコの下調べはほとんどしていなかったし、特別な思い入れも無かったので、主催者側の企画したバスツアーに参加した。  まず、ゴールデンゲートブリッジに立ち寄って1937年に完成したという橋を間近でじっくりと見た。橋を吊っている塔の高さ200メートルを超える橋脚に支えられた吊り橋など、今でこそさほど珍しくはない。だが、1936年というごと昭和12年である。 塔の高さは水面から227メートル、塔と塔の間の長さ1280メートルで、全長は2737メートルある。  1930年代の建造物でありながら現在でも立派に通用していることを考えてみると、それがいかに優れているかがわかる。  橋を渡りきってみたかたったのだが、団体行動なのでそれを諦め、最初の橋脚まで歩いてみた。 短いブロック状に分割されて吊られているのだが、天候が良かったこともあり、特に揺れを感じることはなかった。面白かったのは中央分離帯が移動して、往復6車線の車線を交通量に応じて「4-2」や「3-3」などに変化させられるようになっているところだ。  次にロンバートストリートに行った。  この道は非常に傾斜の強い坂道で、一方通行で一車線の道を激しくつづら折れにしてある。少しでも傾斜を緩くして、自動車が安全に通行できるようにしてある。道の両側は一般の民家で、車道以外の部分を美しいアジサイを植え込んでいる。暮らしを楽しむ人々の思いが伝わってくるような道だった。  それからフィッシャーマンズワーフへ行った。  買い物をしたいという人が圧倒的に多かったので、ここで1時間の自由時間が与えられた。みな、買い物に突撃して行ったが、そういう興味のない僕は、そこにあった水族館に立ち寄った。  それほど有名な水族館でもないし、あまり期待せずに入ってみたが、まずまずの規模の水族館であり、サンフランシスコ湾の水環境について真面目に地道に展示されていた。  クラゲの展示が美しく幻想的に演出されていたほか、そのほかカタクチイワシの群泳、サメに触れるタッチプールなどがあって、一時間では全然満足がいかないほどの水族館であった。  その後、団体は解散して各自で自由行動することになったが、昨日の夜、一度乗ったケーブルカーにもう一度乗ってみた。昨日は夜だったが、昼間に乗るとケーブルカーの構造などがよくわかり面白かった。  ケーブルカーもずいぶん古いもので、1873年に開業したというから、日本の幕末には、もう営業していたわけである。車両はモーターなどがないので、あまり更新の必要もないのだろう。見るからに古そうなものばかりで、それがまた良い雰囲気を出していた。  ※明日、いよいよアメリカを出国する予定だ。これから荷物のパッキングなどをしなければならないので、写真の掲載は後日にすることにしました。

2013年5月1日水曜日

4月30日(火) 総領事館とダウンタウン

 日米共同で取り組むプロジェクトも決まり、会議に主要な部分は今日で終わった。  明日の会議の予定はほんの少し残っているが、実質的には今日で終了と言って良いだろう。  ホッとしたところで夜はサンフランシスコ日本総領事館で歓迎レセプションが行われた。  サンフランシスコに着いて3日目にして、初めてその市街地に行くことになった。  「坂の街」と呼ばれていることは知っていたが、実際に来て驚いた。海岸から少し離れるとすぐ坂道になる。その坂が、登っては降り、降りては登るのである。ちょっとした丘陵地帯をそのまま都市にしたという感じだ。いや、感じではなく、まさに丘陵が連続する場所に都市が置かれている。  しかも、古い歴史がある町だから、道幅は狭い。ソルトレイクの広々とした道とは対照的だ。  そして、元はメキシコ領だったこと、雑多な移民が集まっていること、などの理由で、建物のデザインや看板などから醸し出される雰囲気がワシントンDCとはまったく異なっている。今まで見たことのないタイプの町だ。  総領事館は、ちょうど尾根にあたる部分にあり、その前の道はどちらへ進んでも下り坂になる。  そのためそこからの眺めは素晴らしく、ゴールデンゲートブリッジやサンフランシスコ湾を一目で見渡せる位置にあった。  レセプションが終わってから地元の先生が街を案内して酒場に連れて行ってくれた。その時、ケーブルカーに初めて乗った。映画などによく出てくるケーブルカーだ。  驚いたのはその構造だ。道路上に敷かれた軌道の真ん中に牽引するためのケーブルが入る溝があり、ケーブルは常に動いている。車両は、車内のレバー操作によってケーブルをつかんだり離したりして速度を調節しながら走る。当然ブレーキも付いている。  無いのは、自力で走るためのモーターくらいだろう。  おそらく坂の多いこの街では普通の電車は使えないので考えられた乗り物だろう。所々に停留所があり、ポイントによる分岐もあるので複数の路線があると思われる。  普通に住民の足として利用されている。  珍しい貴重な体験ができた。